ラトルン攻防戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/20 15:49 UTC 版)
「第7機甲旅団 (イスラエル国防軍)」の記事における「ラトルン攻防戦」の解説
詳細は「ラトルン攻防戦 (第一次中東戦争)(英語版)」を参照 第7旅団は5月24~25日、ヨルダン軍が占領していたテルアビブ~エルサレム間の要衝、ラトルン(英語版)の攻略作戦(ビンヌン・アレフ作戦)に投入された。この際アレクサンドロニ旅団(英語版)に所属するツビ・ヘルマン指揮の第32大隊が配属されたが、ラトルンの攻略に失敗し、ヨルダン軍が戦死5名、負傷6名であったのに対して、第7旅団は戦死72名(52名が第32大隊所属、20名が第72大隊所属)、捕虜6名、負傷140名の損害を出した(なお第32大隊の小隊長にはアリエル・シャロンがいて、彼自身も腹部に被弾している)。 5月30~31日、第7旅団はギヴァティ旅団所属第52大隊の増援を得て再び攻略を試みた(ビンヌン・ベート作戦)が、またもや失敗した。結局ラトルンは第一次中東戦争中ヨルダン軍が維持し続け、イスラエル軍は「ビルマ・ロード(英語版)」と呼ばれる迂回路を作ることになる。
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