ラウトゥラエに関する二つの説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/07/06 04:01 UTC 版)
「ラウトゥラエの戦い」の記事における「ラウトゥラエに関する二つの説」の解説
この戦いに関しては、別の説もある。共和政末期から帝政初期にかけての歴史家ティトゥス・リウィウスはその『ローマ建国史』でこの戦いを記述しているが、本文として採用した説はローマにより好意的なものである。戦闘は決定的ではなく、夜になって両軍共に撤退したというものである。しかしリウィウスは別説も取り上げている。そこではローマ軍は敗北し、副官のケッレタヌスが戦死したとされている。 しかしながら、その後に起こったことは、明らかにサムニウムの大勝利を示唆している。市民のあいだには不安が広がり、ウォルスク族、アウルンキ族およびカンパニアの同盟都市はローマに反旗を翻した。
※この「ラウトゥラエに関する二つの説」の解説は、「ラウトゥラエの戦い」の解説の一部です。
「ラウトゥラエに関する二つの説」を含む「ラウトゥラエの戦い」の記事については、「ラウトゥラエの戦い」の概要を参照ください。
- ラウトゥラエに関する二つの説のページへのリンク