モウブレー家とヨーク公(第1期・第2期)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/22 15:06 UTC 版)
「ノーフォーク公」の記事における「モウブレー家とヨーク公(第1期・第2期)」の解説
1397年にはリチャード2世(1367-1400)により、マーガレットと彼女の女系の孫トマス・モウブレー(1366?-1399?)にノーフォーク公爵位(第1期)が与えられた。これがノーフォーク公爵位の最初の創設だった。この時にトマスは、ビゴッド家に帰属した所領と役職(紋章院総裁(Earl Marshal)を含めて)を授けられた。ただし、トマス本人は1398年にリチャード2世の従弟のヘンリー・ボリングブルック(後のヘンリー4世)と対立したことをリチャード2世に咎められ国外追放となり、不遇のまま1399年に没し、次男ジョン(1392-1432)が1425年にノーフォーク公を叙爵されるまで爵位は空位であった。 このような躓きはあったものの1397年から1476年の間、モウブレー家がノーフォーク公の称号と所領を所有したが、1476年に4代目の当主ジョン・モウブレー(1444-1476)が男系の子孫を残さないままに、3歳の1人娘アン・ドゥ・モウブレー(1472-1481)を残して他界する。この後、アンはわずか5歳で当時の国王エドワード4世(1442-1483)の4歳になる息子ヨーク公リチャード(1473-1483?)と結婚する事になる。アンは8歳で亡くなるまでリチャードの妻のままだった。 1481年にリチャードはノーフォーク公爵(第2期)に叙された。しかし1483年に父王エドワード4世が崩御した途端に「リチャードと兄王エドワード5世(1470-1483?)の私生児説」が取りざたされ、新国王リチャード3世(1452-1485)によってヨーク公・ノーフォーク公の両方の爵位は剥奪され、ロンドン塔に収監される(以降行方不明。兄エドワード5世もろともロンドン塔で殺害されたといわれる)。
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