ボレスワフ2世による誘拐
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/09/16 08:33 UTC 版)
「ヘンリク4世」の記事における「ボレスワフ2世による誘拐」の解説
ヘンリク4世はオタカル2世のローマ王ルドルフ1世との戦争を支援し、ボヘミアの軍勢に食糧と避難場所を提供した。しかし1277年、オタカル2世が帝国アハト刑を課せられて身動きできなくなると、ヘンリク4世は伯父であるレグニツァ公ボレスワフ2世にイェルチュで捕らえられ投獄された。 この投獄事件は近隣諸公達の非難の的になった。従弟でオタカル2世の同盟者であるグウォグフ公ヘンリク3世とヴィエルコポルスカ公プシェミスウ2世は、ヘンリク4世を解放させようと圧力をかけ、オタカル2世自身も熱心に解放要求を続けた。しかし、ヘンリク4世の解放を掲げた連合軍は1277年4月24日に起きたストレツの戦いでボレスワフ2世の息子ヘンリク5世に敗れ、ヘンリク3世とプシェミスウ2世はこの戦いで捕虜となった。 ヘンリク4世は主要な同盟者オタカル2世の敗北の報を聞くと、敵側の要求を受け入れ、年内に釈放された。ヘンリク4世はボレスワフ2世の要求に従ってシロダ・シロンスカとスチェゴムを含むヴロツワフ公国の領土の3分の1を伯父に譲渡し、身代金の代わりにクロスノ・オジャンスキェ(1273年から1274年の間にグウォグフ公から譲られていた都市)を引き渡すことも約束させられた。
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