ボボジャン・ガフーロフとは? わかりやすく解説

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ボボジャン・ガフーロフ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/29 07:09 UTC 版)

ボボジャン・ガフーロヴィチ・ガフーロフ
人物情報
生誕 (1908-12-18) 1908年12月18日
ロシア サマルカンド州ホジェンド
死没 1977年7月12日(1977-07-12)(68歳)
タジク・ソビエト社会主義共和国ドゥシャンベ
出身校 ソビエト連邦科学アカデミー歴史学研究所
学問
研究分野 歴史学
研究機関 ソビエト連邦科学アカデミー東洋学研究所
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ボボジャン・ガフーロヴィチ・ガフーロフ英語: Bobojon Ghafurovich Ghafurovタジク語: Бобоҷон Ғафуровペルシア語: باباجان غفورف‎、ロシア語: Бободжан Гафурович Гафуров1908年12月18日 - 1977年) は、タジキスタン歴史家研究者である。ガフーロフはロシア語タジク語で「タジキスタンの歴史」や「タジク人」といった複数の書籍を出版している。

経歴

1908年、ホジェンド付近にある村で生まれた。1928年から1929年にかけてサマルカンドに留学し、サドリディン・アイニーとガフル・グリャムの(Gʻafur Gʻulom)に師事した。その後モスクワに移って、1935年にソ連邦ジャーナリズム研究所(Всесоюзный институт журналистики)を卒業した。1941年にモスクワの歴史研究所に所属し、1949年に学位論文『イスマーイール派の歴史』を提出してソビエト連邦科学アカデミーから博士号を取得した[1]

政治家としては、1941年から1944年までタジキスタン共産党プロパガンダ担当、1944年から1946年まで第二書記、1946年8月から1956年5月24日まで第一書記を務めた[1][2]。1956年から亡くなるまで、ガフーロフはソビエト連邦科学アカデミー東洋学研究所の主任、及びアジア・アフリカジャーナルの編集者を務めた[1]

顕彰

  • タジキスタンのソグド州にあるガフーロフ英語版という街とガフーロフ地区英語版という地区の名前は彼の功績を讃えて名付けられたものである。
  • 生誕90周年を祝って50ソモニ札が発行された。
ガフーロフ生誕90周年を祝って発行された50ソモニ

著作

脚注

  1. ^ a b c Iraj Bashiri, Prominent Tajik Figures of the Twentieth Century, International Borbad Foundation, Academy of Sciences of Tajikistan, Dushanbe, 2003.
  2. ^ Leaders of Tajikistan in XX-th century (1924 – 2000)”. unece.org. 2013年3月30日閲覧。





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