ベンガル・イギリスとの関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/21 03:05 UTC 版)
「ファッルフシヤル」の記事における「ベンガル・イギリスとの関係」の解説
ファッルフシヤルがベンガルを離れたことで、父の補佐だったムルシド・クリー・ハーンは半独立の立場をとることができ、1717年にファッルフシヤルは彼を正式にベンガル太守に任命した。 18世紀初頭にアウラングゼーブが死ぬと、ベンガル地方ではイギリスとフランスがそれぞれの拠点を中心にしのぎを削っていた。 カルカッタを拠点していたイギリス東インド会社は勢力の拡大を狙い、同年4 月にファッルフシヤルから自国に有利な勅状を出させた。 その勅状の内容とは関税の免除特権であり、「船によって国に輸入され、もしくは国から輸出される品物について、会社の封印のある許可状を提示したもののみ関税を免除される」というものだった。このとき与えられた免除特権では、イギリス東インド会社は関税なしで自由に物産を輸出入することができ、こうした物産の移動に対するスタッグと呼ばれる自由通関券する権利も与えられていた。 この免除特権は太守の税収の減少を意味し、また自由通関券を発行する権利は会社社員が私貿易の税を免除するのに利用され、以降太守らとの摩擦につながった。また、のちにイギリスが勢力を増長すると、彼らはこれに記された権利を広く解釈し、すべての私貿易と広範な品物の取引が無税であると主張するようになった(自由通関権)と考えるようになった。
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