フレデリック・バスティアとは? わかりやすく解説

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フレデリック・バスティア

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/12/14 14:19 UTC 版)

フレデリック・バスティア
生誕 (1801-06-30) 1801年6月30日
バイヨンヌ
死没 (1850-12-24) 1850年12月24日(49歳没)
ローマ
国籍 フランス
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フレデリック・バスティア(Frédéric Bastiat, 1801年6月30日 - 1850年12月24日)は、フランス経済学者。古くは巴士智亜やバスチアーとも表記された。

略歴

フランス南部の港町バイヨンヌで生まれた[1]。父は実業家であった。母は7歳のとき、父は9歳のときに死去した。祖父やおばによって育てられる。家業をつぐため17歳で学校を中退した。貿易にかかわる中で経済を学ぶ。さらに哲学、歴史、政治、文学、宗教など複数の分野の学問を独学した。特に古典的自由主義者のジャン=バティスト・セイに感化された。

フランス7月革命に影響を受けたあと、1831年にバイヨンヌの治安判事に任命され、それから翌年、県議会議員になった。イギリスの穀物法にからみ、リチャード・コブデン反穀物法同盟を支持した。自由貿易協会を1846年に創設。フランス学士院の会員に選ばれる。1848年の二月革命後にはフランス立法議会の議員に選出された[2]。『見えるものと見えないもの』というエッセイの中で、政府は自分たちが何か「社会貢献」をすればそれを自画自賛するが、「やらなかったこと」には言及しない、といった指摘をしている。はっきりと世間に見えることは吹聴するが、見えない結末や行わなかった事象(本当に必要な制度改革や援助、福利厚生)は見ない。彼はそうした政府の効能を説くような議論を攻撃し、自由主義者を活気づけた。

1845年に『経済弁妄』(林正明訳 丸家善七 1878年)を書き上げる、その後、1849年に『理財要論』(山寺信炳訳 博文社 1880年)、1850年には『経済調和論』(土子金四郎訳 哲学書院 1888年)や『La Loi』 (未邦訳)を刊行した。

1850年12月24日にイタリアローマ結核によって死去した。

著書

  • 1845年-1848年 『経済弁妄』 Sophismes économiques
  • 1845年 Pétition des fabricants de chandelles,Journal des Économistes,1845年10月号若くはSophismes économiques,cho 7
  • 1849年 『理財要論』 Capital et rente
  • 1850年 Ce qu'on voit et ce qu'on ne voit pas
    • 『自由の経済学内目に見えるもの、目に見えないもの』、監修渡瀬裕哉、 パシフィック・アライアンス総研株式会社 、2021年
    • 見えるものと見えないもの』、蔵研也訳
  • 1850年 『経済調和論』 Harmonies économiques
    • 経済調和論抜筆 講述土子金四郎博士、哲學書院、明治21
  • 1850年 『La Loi』 邦訳pdf

脚注

関連項目

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