フリードリヒ2世_(ヘッセン=カッセル方伯)とは? わかりやすく解説

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フリードリヒ2世 (ヘッセン=カッセル方伯)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/29 22:19 UTC 版)

フリードリヒ2世
Friedrich II.
ヘッセン=カッセル方伯
在位 1760年2月1日 - 1785年10月31日

出生 (1720-08-14) 1720年8月14日
神聖ローマ帝国
ヘッセン=カッセル方伯領カッセル
死去 (1785-10-31) 1785年10月31日(65歳没)
神聖ローマ帝国
ヘッセン=カッセル方伯領、カッセル
配偶者 メアリー・オブ・グレート・ブリテン
  フィリッピーネ・フォン・ブランデンブルク=シュヴェート
子女 ヴィルヘルム
ヴィルヘルム9世
カール
フリードリヒ
家名 ヘッセン=カッセル家
父親 ヘッセン=カッセル方伯ヴィルヘルム8世
母親 ドロテア・ヴィルヘルミーネ・フォン・ザクセン=ツァイツ
宗教 キリスト教プロテスタントカトリック
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フリードリヒ2世Friedrich II., 1720年8月14日 - 1785年10月31日)は、ヘッセン=カッセル方伯(在位:1760年 - 1785年)。

生涯

ヴィルヘルム8世とその妻であったザクセン=ツァイツ公モーリッツ・ヴィルヘルムの公女ドロテア・ヴィルヘルミーネ(1691年 - 1743年)の息子。

1740年イギリス王兼ハノーファー選帝侯ジョージ2世の王女メアリー(1723年 - 1772年)と結婚した(式は5月8日に代理人を介してロンドンで、6月28日に本人が出席してカッセルでそれぞれ行なわれた)。

2人の間には、以下の4子が生まれた。

  • ヴィルヘルム(1741年12月25日 - 1742年7月1日) - 夭逝
  • ヴィルヘルム9世(1743年 - 1821年) - ヘッセン=カッセル方伯、後にヘッセン選帝侯(ヴィルヘルム1世)となる
  • カール(1744年 - 1836年)
  • フリードリヒ(1747年 - 1837年)

また、1772年にメアリーと死別すると1773年1月10日ベルリンにてブランデンブルク=シュヴェート辺境伯フリードリヒ・ヴィルヘルムの娘フィリッピーネと再婚したが、彼女との間には子供は生まれなかった。

1749年に父と共にケルン大司教クレメンス・アウグスト・フォン・バイエルンを訪ねた際、カトリックに改宗したが、ヘッセン=カッセルの宗教はカルヴァン派にとどめ、自身の子供もプロテスタントとして育てた。

1760年、父の死によってヘッセン=カッセル方伯位を嗣いだ。1775年アメリカ独立戦争が勃発するとフリードリヒ2世はイギリスとの間に傭兵提供条約を結び、これによって莫大な収益をあげた。

1785年にカッセルで死去し、次男ヴィルヘルムがヴィルヘルム9世として方伯位を嗣いだ。

関連項目

先代
ヴィルヘルム8世
ヘッセン=カッセル方伯
1760年 - 1785年
次代
ヴィルヘルム9世



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