ヴィルヘルム1世 (ヘッセン選帝侯)とは? わかりやすく解説

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ヴィルヘルム1世 (ヘッセン選帝侯)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/29 22:19 UTC 版)

ヴィルヘルム1世
Wilhelm I.
初代ヘッセン選帝侯
在位 1803年5月15日 - 1821年2月27日
別号 ヘッセン=カッセル方伯
在位 1785年10月31日 - 1803年5月15日

出生 (1743-06-03) 1743年6月3日
神聖ローマ帝国
ヘッセン=カッセル方伯領カッセル
死去 (1821-02-27) 1821年2月27日(77歳没)
ヘッセン選帝侯国、カッセル
埋葬 ヘッセン選帝侯国、カッセル、レーヴェンブルク城内教会
配偶者 ヴィルヘルミーネ・カロリーネ・ア・ダンマーク
子女 マリー・フリーデリケ
カロリーネ・アマーリエ
フリードリヒ
ヴィルヘルム2世
家名 ヘッセン=カッセル家
父親 ヘッセン=カッセル方伯フリードリヒ2世
母親 メアリー・オブ・グレート・ブリテン
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ヴィルヘルム1世Wilhelm I., 1743年6月3日 - 1821年2月27日)は、初代ヘッセン選帝侯(在位:1803年 - 1821年)。初めはヘッセン=カッセル方伯(ヘッセン=カッセル方伯としてはヴィルヘルム9世、在位:1785年 - 1803年)。ヘッセン=カッセル方伯フリードリヒ2世とその妻であったイギリス王兼ハノーファー選帝侯ジョージ2世の王女メアリーの息子。

生涯

1743年6月3日にカッセルで生まれ、兄のヴィルヘルムが既に夭逝していたため世嗣となる。1764年にはデンマークノルウェーフレデリク5世の王女ヴィルヘルミーネ・カロリーネと結婚し、彼女との間に2男2女をもうけた。

ヴィルヘルムは1785年10月31日に父のフリードリヒ2世が死去したためヘッセン=カッセル方伯ヴィルヘルム9世となり、当時ヨーロッパ最大級といわれた資産を相続した。また、ヴィルヘルム9世はロスチャイルド家の祖であるマイアー・アムシェル・ロートシルト1775年に知己を得、1801年から彼に財産の運用を任せるようになった。ロートシルトはこれを奇貨とし、現代まで続くロスチャイルド財閥の基礎を築いた。

1803年、ヘッセン=カッセル方伯に選帝侯の資格が与えられ、ヴィルヘルム9世はヘッセン選帝侯ヴィルヘルム1世となった。しかし1806年、選帝侯国はジェローム・ボナパルトを国王とするヴェストファーレン王国によって併合された。そのためヴィルヘルム1世はホルシュタインおよびプラハへ亡命したが、1813年ライプツィヒの戦いナポレオン・ボナパルトが敗れると領土を回復し、1821年に死去するまでその地位にあった。なお、ヴィルヘルム1世は神聖ローマ帝国が解体されたにも拘らず「選帝侯」の称号を用い続けた。

ヴィルヘルム1世が死去すると、次男のヴィルヘルム2世が後を嗣いだ。

子女

先代
フリードリヒ2世
ヘッセン=カッセル方伯
1785年 - 1803年
次代
(選帝侯へ陞格)
先代
-
ヘッセン選帝侯
1803年 - 1821年
次代
ヴィルヘルム2世



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