フリードリヒ・クリスティアン・フォン・ザクセンとは? わかりやすく解説

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フリードリヒ・クリスティアン・フォン・ザクセン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/08/20 13:24 UTC 版)

フリードリヒ・クリスティアン
Friedrich Christian
ザクセン王家家長
フリードリヒ・クリスティアン
在位 1932年 - 1968年

全名
称号 マイセン辺境伯
敬称 殿下
出生 (1893-12-31) 1893年12月31日
ドイツ帝国
ザクセン王国ドレスデン
死去 (1968-08-09) 1968年8月9日(74歳没)
スイスグラウビュンデン州マローヤ郡サメーダン
埋葬  オーストリアチロル州イムスト郡カルレステン、王室礼拝堂
配偶者 エリーザベト・ヘレーネ
子女
家名 ヴェッティン家アルベルティン家
父親 フリードリヒ・アウグスト3世
母親 ルイーゼ
宗教 キリスト教カトリック教会
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フリードリヒ・クリスティアン・フォン・ザクセンドイツ語: Friedrich Christian von Sachsen, 1893年12月31日 - 1968年8月9日)は、ザクセン王家家長(1932年 - 1968年)。ザクセン王家家長の儀礼称号としてはマイセン辺境伯を称した。

生涯

最後のザクセン王フリードリヒ・アウグスト3世とその妃のエスターライヒ=トスカーナ大公女ルイーゼの次男として、ドレスデンに生まれた。父王はドイツ革命の煽りを受けて1918年11月に退位し、王政も廃止された。1923年に聖職者となった兄ゲオルクが王位継承権を放棄したため、フリードリヒ・クリスティアンはザクセン王家の推定相続人となり、1932年にフリードリヒ・アウグスト3世が死去すると、家長位を継承した。

1933年、かつてザクセン選帝侯領が18世紀にポーランド・リトアニア共和国と同君連合を結んでいた関係で、ポーランド政府がフリードリヒ・クリスティアンにポーランド王となってくれるよう打診した。しかしアドルフ・ヒトラー率いる国家社会主義ドイツ労働者党の台頭、また第二次世界大戦とその後のポーランド共産化のため、フリードリヒ・クリスティアンを王に迎えてのポーランド王国復活は実現しなかった。

子女

1923年、トゥルン・ウント・タクシス侯アルベルトの長女エリーザベト・ヘレーネと結婚し、2男3女を儲けた。

  • マリア・エマヌエル(1926年 - 2012年) - ザクセン王家家長
  • マリア・ヨーゼファ(1928年 - 2018年)
  • アンナ英語版(1929年 - 2012年) - 1953年ロベルト・アフィーフと結婚、ザクセン=ゲッサフェ家英語版の始祖
  • アルブレヒト英語版(1934年 - 2012年) - ザクセン王家家長
  • マティルデ英語版(1936年 - 2018年) - 1968年にコーブルク=コハーリ公子ヨハネス・ハインリヒ英語版と結婚
フリードリヒ・クリスティアンの墓石
先代
フリードリヒ・アウグスト3世
ヴェッティン家アルブレヒト系家長
〈名目上〉ザクセン王

1932年2月18日 – 1968年8月9日
次代
マリア・エマヌエル



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