フリードリヒ・クリスティアン (ザクセン選帝侯)とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > フリードリヒ・クリスティアン (ザクセン選帝侯)の意味・解説 

フリードリヒ・クリスティアン (ザクセン選帝侯)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/21 15:38 UTC 版)

フリードリヒ・クリスティアン
Friedrich Christian
ザクセン選帝侯
フリードリヒ・クリスティアン
在位 1763年10月5日 - 12月17日

出生 (1722-09-05) 1722年9月5日
神聖ローマ帝国
ザクセン選帝侯領ドレスデン
死去 (1763-12-17) 1763年12月17日(41歳没)
神聖ローマ帝国
ザクセン選帝侯領、ドレスデン
埋葬 神聖ローマ帝国
ザクセン選帝侯領、ドレスデン宮廷教会
配偶者 マリア・アントーニア・フォン・バイエルン
子女 一覧参照
家名 ヴェッティン家アルブレヒト系
父親 フリードリヒ・アウグスト2世
母親 マリア・ヨーゼファ・フォン・エスターライヒ
テンプレートを表示

フリードリヒ・クリスティアンFriedrich Christian, 1722年9月5日 - 1763年12月17日)は、ザクセン選帝侯(在位:1763年)。フリードリヒ・アウグスト2世ポーランド王アウグスト3世)と神聖ローマ皇帝ヨーゼフ1世の皇女マリア・ヨーゼファの三男で、全名はフリードリヒ・クリスティアン・レオポルト・ヨハン・ゲオルク・フランツ・クサーヴァーFriedrich Christian Leopold Johann Georg Franz Xaver)。

生涯

生まれつき病弱で、片足が不自由だったため車椅子を使っていた。母マリア・ヨーゼファはフリードリヒ・クリスティアンよりその弟たちに選帝侯位を継がせようとしたが、結局1763年10月5日にフリードリヒ・アウグスト2世が死去すると、フリードリヒ・クリスティアンが選帝侯位に即いた。即位してすぐ、ザクセンの財政を破綻させ、国を七年戦争に巻き込んだ不人気な大臣ハインリヒ・フォン・ブリュール英語版伯爵を解任した。ハインリヒは10月に亡くなったが、フリードリヒ・クリスティアンも天然痘に罹り、同年12月17日ドレスデンで急死した。フリードリヒ・クリスティアンの遺体はドレスデン宮廷教会に葬られた。長男のフリードリヒ・アウグスト3世が選帝侯位を嗣いだが、13歳と年少のため、王妃のマリア・アントーニアとフリードリヒ・クリスティアンの弟フランツ・クサーヴァー摂政を務めた。

子女

1747年に従妹にあたる神聖ローマ皇帝兼バイエルン選帝侯カール7世の皇女マリア・アントーニア(1724年 - 1780年)と結婚し、以下の子供をもうけた。

先代
フリードリヒ・アウグスト2世
ザクセン選帝侯
1763年
次代
フリードリヒ・アウグスト3世



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「フリードリヒ・クリスティアン (ザクセン選帝侯)」の関連用語

フリードリヒ・クリスティアン (ザクセン選帝侯)のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



フリードリヒ・クリスティアン (ザクセン選帝侯)のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのフリードリヒ・クリスティアン (ザクセン選帝侯) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS