ハンス・コーノン・フォン・デア・ガーベレンツとは? わかりやすく解説

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ハンス・コーノン・フォン・デア・ガーベレンツ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/11 02:56 UTC 版)

ハンス・コーノン・フォン・デア・ガーベレンツ

ハンス・コーノン・フォン・デア・ガーベレンツ(Hans Conon von der Gabelentz、1807年10月13日 - 1874年9月3日)は、ドイツの政治家、言語学者

1848年から1849年にかけてザクセン=アルテンブルク公国の首相をつとめた。言語学者としてはさまざまな言語を研究したが、とくに満州語の研究がよく知られる。

有名な言語学者・中国学者ゲオルクは息子。

略歴

ガーベレンツはザクセン=ゴータ=アルテンブルク公国のアルテンブルクに生まれた。父のハンス・カール・レーオポルトは政府の宰相で枢密顧問官だった[1][2]。なお、ザクセン=ゴータ=アルテンブルク公国は1825年に再構成され、アルテンブルクは新しいザクセン=アルテンブルク公国の首都になった。

1825年から1828年にかけてライプツィヒ大学ゲッティンゲン大学で法学と官房学を学んだ[1]。1830年からアルテンブルクの国政にたずさわったが、急速に昇進して1847年にはヴァイマル大公国議長(Landmarschall)に選ばれた[1][2]。1848年には予備会議(フランクフルト国民議会選挙準備のための議会)のテューリンゲン代表、およびアルテンブルクの首相に就任した[3]

翌1849年には言語学研究に専念するために首相を辞職したが、その後もアルテンブルク議会の議員であり続け、1870年までしばしば議長をつとめた[1][3]。その後はすべての公務から退き、1874年にレムニッツドイツ語版で没した[1]

ガーベレンツは『東洋学報』(Zeitschrift für die Kunde des Morgenlandes, 1837-1850)の共同編集者のひとりであり、1847年からは『ドイツ東洋学会報』に寄稿した[2]

主な著書

ガーベレンツは言語学を専門に学んだことはなかったが、80前後の言語を研究し、その多くについては最初の研究者であった[3]。ガーベレンツはできるかぎり文法書ではなく、実際の会話から言語を習得しようとした[1]ヴィルヘルム・フォン・フンボルトの方向を継承し、当時の研究の主流だったインド・ヨーロッパ語族セム語族からは構造的に遠く離れたモンゴル語ウラル語族オーストロネシア語族スワヒリ語、アメリカ大陸のダコタ語チェロキー語などの文法を発表している[1]。しかし当時の言語学の潮流とことなっていたために同時代からはほとんど無視された[3]

1860年には受動態に関する論文を公刊したが、そこでは209の言語が対照されている[3]

最初に研究したのは満州語だった。

ゴート語を研究し、ウルフィラ聖書の校訂本を出版した。

ほかにさまざまな言語の文法書を残している。

脚注

  1. ^ a b c d e f g ADB
  2. ^ a b c ブリタニカ百科事典第11版
  3. ^ a b c d e NDB

参考文献




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