ハルツ城の略奪
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/10 09:51 UTC 版)
「ザクセン戦争 (ハインリヒ4世)」の記事における「ハルツ城の略奪」の解説
この結果、ハルツ城は大聖堂とハインリヒ4世の夭折した息子と兄弟の眠る墓が処分されることとなった。それを補うため、ハインリヒ4世はハルツ城の近くに塔と城壁だけを設けなければならなくなった。他方でこのことは周囲の地方の人びとを憤慨させた。その結果、1074年3月には大聖堂と城は基礎となる城壁ともども解体され、王室の坑夫は名を汚された。この出来事でハインリヒ4世は個人にかかわって政治上持てる切り札のすべてを仕掛けた。教会を冒涜し、国王の墓を略奪することは、多くの諸侯がハインリヒ4世側に立つに至る、きわめて非道な行為だと見なされたのである。ザクセン大公マグヌスは地方の民衆行動に関する全責任を拒絶しながらも、みずからの費用で城と教会の修復を提供した。
※この「ハルツ城の略奪」の解説は、「ザクセン戦争 (ハインリヒ4世)」の解説の一部です。
「ハルツ城の略奪」を含む「ザクセン戦争 (ハインリヒ4世)」の記事については、「ザクセン戦争 (ハインリヒ4世)」の概要を参照ください。
- ハルツ城の略奪のページへのリンク