ハインリヒ獅子公の没落
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/17 14:23 UTC 版)
「ベルンハルト3世 (ザクセン公)」の記事における「ハインリヒ獅子公の没落」の解説
1180年、ヴュルツブルクで行われた会議において、ハインリヒ獅子公は皇帝フリードリヒ1世により追放され、領地のバイエルン公領およびザクセン公領を失った。その結果、1180年4月13日にゲルンハウゼンにおいて、ベルンハルトはヴェルフ家領地の東部とブレーメン司教領を手に入れた。 しかし、ザクセン公領はそれ以前に分割されており、マイセン辺境伯領とブランデンブルク辺境伯領に挟まれた地域のみとなっていた。アケンおよびヴィッテンベルクの周辺地域およびマグデブルク城伯領などの領地がベルンハルトのものとなった。ケルン大司教は、ハインリヒ獅子公がかつて領していたエンゲルンおよびヴェストファーレンの地を手に入れた。ホルシュタイン伯はザクセン公の主権から脱却し、シュターデ伯はブレーメン大司教の支配下に入り、リューベックは帝国自由都市となり、ザクセン宮中伯領は1179年にチューリンゲン方伯ルートヴィヒ3世のものとなった。加えて、ザクセンの司教らは自身の領地を取り戻した。このため、ベルンハルトは1181年のハインリヒ獅子公に対する皇帝の遠征を支援しなくてはならなかった。1181年11月、ハインリヒ獅子公はエアフルトの議会において皇帝に降伏した。この時に、ベルンハルトはようやくザクセン公位をその領地とともに与えられた。降伏の後、ハインリヒ獅子公は家領の保持を認められ、それは後にブラウンシュヴァイク=リューネブルク公領となった。
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