ドルゴン摂政時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/07 17:22 UTC 版)
ドルゴンとホーゲの対立は日に日に悪化した。順治元年(1644年)4月1日には、ホーゲが自分を誹謗しているのを耳にしたドルゴンが、「ホーゲが謀反を企んでいる」と上奏した。幼い順治帝は兄を助けようと泣いて命乞いし、罰金刑だけですんだ。その後、権力を増したドルゴンは順治4年(1647年)目障りになったジルガランから摂政王の位を剥奪し、代わりに自分の弟ドドを摂政とした。翌順治5年(1648年)にはさらに、ジルガランを郡王に格下げした上で罰金刑に処した。 ホーゲはドルゴンから冷遇されるも、戦場で功績を重ね、張献忠を倒すなど抜群の戦績を挙げた。これを不愉快に思ったドルゴンは、また謀反の罪で殺そうとするが、順治帝は一歩も譲らず「処刑は認めない」と毅然たる態度を示した。それでもホーゲは冤罪で捕えられ、順治5年(1648年)に獄死した。 ホーゲとジルガランを排したドルゴンは権力をさらに増し、横暴が目立つようになった。自身の称号は「摂政王」から「叔父摂政王」順治2年(1645年)に「皇叔父摂政王」順治5年(1648年)からは「皇父摂政王」を称している。また、ホーゲ死後にその側室を自分の側妃とした。 しかし順治7年(1650年)、ドルゴンは狩りの途中で突然死去した。
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