ダーラー・シコーとの戦い
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「シャー・シュジャー (ムガル皇子)」の記事における「ダーラー・シコーとの戦い」の解説
1657年9月、父帝シャー・ジャハーンが重病で倒れると、シャー・シュジャーは皇位をめぐって兄ダーラー・シコーと2人の弟アウラングゼーブ、ムラード・バフシュと争うこととなった。シャー・シュジャーはほかの兄弟よりも真っ先に行動し、11月にはベンガルで帝位を宣し、その名を刻んだ硬貨を鋳造した。 1658年2月14日、シャー・シュジャーはアーグラへと向かう途中で、デリーから派遣された甥のスライマーン・シコー率いるダーラー・シコーの軍と対決した(バハードゥルプルの戦い)。この戦いにおいて、シャー・シュジャーは命ばかりは取り留めたが、その軍の前に敗れ去り、数日間追撃された。 この敗戦の結果、スライマーン・シコーは名声を博した一方で、シャー・シュジャーはひどく信頼を損ない、彼に期待を寄せていた人物はみな熱が冷めた、とフランスの旅行家フランソワ・ベルニエは語っている。 そのため、5月17日にシャー・シュジャーはダーラー・シコーと講和し、ベンガル、ビハール、オリッサの大部分の領有を認められた。 6月8日、ダーラー・シコーはアウラングゼーブとムラード・バフシュの連合軍にアーグラ近郊で破れ、ラホールへと逃げた(サムーガルの戦い)。そして、アウラングゼーブはムラード・バフシュを幽閉したのち、7月31日にデリーにおいて即位式を挙げ、ムガル帝国の皇帝となった。
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