ジュンテルの戦い(782年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/08/27 00:35 UTC 版)
「ヘッシシュ・オルデンドルフ」の記事における「ジュンテルの戦い(782年)」の解説
カール大帝による強制的なキリスト教化の過程で、フランク族とザクセン族は 782年にジュンテルの麓で衝突した。フランク軍は、元々テューリンゲンのソルブ族に対して派遣されたのだが、ザクセン族の蜂起を知り、ジュンテルの麓の陣営を探知すると闇雲にこの敵陣に襲いかかった。一方、ヴィドゥキント公が率いるザクセン族は整然と攻撃を待ち受けていた。その一部はフランク軍を迂回して背後を突き、これによりフランク族はほぼ全滅した。ホーエンシュタイン山のトーテンタール(死の谷)やブルートバッハ(血の小川)、さらにはダハテルフェルト(殴打の野)といった地名が、この大虐殺を伝えている。カール大帝は「フェルデンの血の裁判」でこの敗北に対する報復を果たした。この裁判では4500人のザクセン貴族が処刑された。
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