ジジ・ジャンメールとは? わかりやすく解説

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ジジ・ジャンメール

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/09/18 02:59 UTC 版)

Zizi Jeanmaire

ジジ・ジャンメール
ジジ・ジャンメール(1963年)
生誕 1924年4月29日
フランスパリ
死没 (2020-07-17) 2020年7月17日(96歳没)
スイスヴォー州トロシュナ英語版
出身校 パリ・オペラ座バレエ学校
職業 バレエダンサー歌手俳優
配偶者 ローラン・プティ
子供 ヴァランティーヌ・プティ[1]
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ジジ・ジャンメールRenée Marcelle "Zizi" Jeanmaire1924年4月29日 - 2020年7月17日)は、フランスバレエダンサー歌手俳優である[2]。夫はバレエダンサー、振付家ローラン・プティ[3]

15歳でパリ・オペラ座バレエ団に入団するが、20歳で退団[1]。1949年、プティ振付のバレエ『カルメン英語版』に主演し、国際的な名声を獲得する[4]。その後、プティと共にミュージカル映画レヴューの分野にも進出[5]シャンソン歌手として多数の楽曲を発表し、舞台俳優として演劇やオペレッタにも出演するなど、ジャンルを越えたエンターテイナーとして活躍した[1][6]

経歴

生い立ち

1924年4月29日、パリで、父マルセル・ジャンメールと母オルガの間に生まれる[1]。本名はルネ・ジャンメールだが、母オルガが幼い娘のことを「モン・ジェジュ(私のイエス様)」と呼んでいたことから、「ジジ」というあだ名がついた[7]

ジャンメールがバレエに出会ったきっかけは、祖父に連れられて観劇したシャルル・グノーオペラロメオとジュリエット』であった[2]。劇中に登場するバレエに魅了されたジャンメールは、ダンサーになることを志し、1933年、9歳でパリ・オペラ座バレエ学校に入学する[2]。バレエ学校の同期には、後に夫となるローラン・プティもいた[8]

パリ・オペラ座バレエ学校では、生徒がパリ・オペラ座バレエ団のダンサーを一人選んで世話役になってもらうという慣習があるが、ジャンメールの世話役を務めたのはイヴェット・ショヴィレだった[9]。ジャンメールはショヴィレの紹介で、バレエ教師ボリス・クニアセフ英語版に師事し、技術を磨くことができた[9]

バレエダンサーとして

バレエ・ド・パリ時代のジャンメール

1940年、15歳でパリ・オペラ座バレエに入団する[1]。しかし、バレエ団内での自分の階級に不満を抱くようになり、1944年、パリ解放の直前にオペラ座を退団した[7]。その後、セルジュ・リファール率いるバレエ・リュス・ド・モンテカルロに参加し、続いてバジル大佐英語版率いるオリジナル・バレエ・リュスにも客演した[10]

1948年、ローラン・プティが旗揚げしたバレエ・ド・パリに参加し、その看板ダンサーとなる[4]。1949年、プティ振付によるバレエ『カルメン英語版』のロンドン初演が大評判を呼び、主演のジャンメールとプティは国際的な名声を手にする[4]。『カルメン』はニューヨークでも上演され、高い評価を受けた[11]

歌手、俳優、ダンサーとして

ニューヨークでミュージカルに魅せられたプティは、シャンソンでミュージカルを作ろうと思い立つ[12]。ジャンメールは元々歌が上手くなかったが、3ヶ月に渡る歌の特訓の末、この作品の主役の座を手に入れた[11]。1950年、レーモン・クノー台本、ジャン=ミシェル・ダマーズ作曲による『ダイヤモンドを噛む女』が初演され、ジャンメールは本作の主題歌でフランス・ディスク大賞英語版を獲得した[2][11]

『ダイヤモンドを噛む女』で注目を集めたジャンメールは、映画会社RKOハワード・ヒューズと契約し、1952年の『アンデルセン物語』で映画初出演を果たす[13][14]。この映画を制作したサミュエル・ゴールドウィンの提案により、ジャンメールは本名の「ルネ」ではなく、幼少期のあだ名である「ジジ」を名乗るようになった[1][15]

その後、プティと仲違いしたジャンメールはバレエ・ド・パリを退団し、1954年にブロードウェイ・ミュージカル『ピンク・タイツの女英語版』に出演するが、同年に二人は和解し、結婚した[2]。翌1955年には娘ヴァランティーヌが生まれた[1]

ジャンメールとプティは、1957年にレヴュー『ミュージック・ホールのジジ』を上演し、ショービジネスの世界に参入する[16]。1961年にジャンメールが歌った楽曲「私の羽根飾りのトリック」は、その後のレヴューでも繰り返し登場し、ジャンメールのテーマソングとなった[2]。1970年、ジャンメールとプティはパリの老舗ミュージックホールであるカジノ・ド・パリ英語版を買収し、レヴューを上演するようになったが、資金不足のため、1975年末をもってカジノとの契約は打ち切られた[17][18]。その後もジャンメールは、70代になるまでプティ作のレヴューへ出演を続けた[1]

プティが1972年から1998年まで芸術監督を務めたマルセイユ・バレエ団でも、ジャンメールはダンサーとして活躍した[1]。1975年、ジャンメールはバレエ『幻想交響曲』の公演中にアキレス腱切断という大怪我を負い、ダンサー生命の危機を迎えるが、1977年には舞台に復帰する[2][18]。その後、プティ振付のバレエ『こうもり』(1979年)のベラ役、『眠れる森の美女』(1990年)のカラボス役などを初演した[19][20]

晩年

ジャンメールとプティの墓(2021年)

1998年、プティがマルセイユ・バレエ団を辞職すると、夫婦でスイスジュネーヴに移住した[2]。2000年、パリ・オペラ座で、シンガーソングライターとして活動する娘ヴァランティーヌの楽曲を披露したのが、ジャンメールの最後の公演となった[1]

2008年、自伝『そして私の心に残された思い出』を出版している[2][7]

2011年7月10日、プティと死別。

2020年7月17日、スイスのヴォー州トロシュナ英語版の自宅で、脳出血により96歳で死去した[21]

ジャンメールの功績に対しては、芸術文化勲章シュヴァリエ、レジオン・ドヌール勲章オフィシエ、国家功労勲章コマンドゥールなどが授与されている[2]

出演映画

ジャンメールの出演した映画は以下の通りである[22][23][24]

関連項目

  • ホエア・ドゥ・ユー・ゴー・トゥ(マイ・ラブリー)英語版 - 英国の歌手ピーター・サーステッド英語版による1969年の楽曲[1]。歌詞の中に「君はマレーネ・ディートリヒのようにしゃべり、ジジ・ジャンメールのように踊る」という一節がある[1]
  • イヴ・サン=ローラン - ジャンメールの衣装デザイナーで、親しい友人でもあった[2]
  • CAN-CAN - ミュージカル作品。1981年、ブロードウェイでのリバイバル公演にジャンメールが主演した[1]

出典

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m Sulcas 2020.
  2. ^ a b c d e f g h i j k Cruickshank 2020.
  3. ^ クレイン 2010, p. 443.
  4. ^ a b c 鈴木 2008, p. 228.
  5. ^ ダンスマガジン編集部 1999, p. 92.
  6. ^ マノニ 2015, pp. 132, 135.
  7. ^ a b c マノニ 2015, p. 133.
  8. ^ マノニほか 1987, p. 150.
  9. ^ a b マノニ 2015, p. 132.
  10. ^ 鈴木 2008, pp. 227–228.
  11. ^ a b c マノニほか 1987, p. 157.
  12. ^ マノニほか 1987, p. 151.
  13. ^ マノニほか 1987, p. 158.
  14. ^ マノニ 2015, p. 134.
  15. ^ マノニ 2015, pp. 133–134.
  16. ^ 鈴木 2008, p. 234.
  17. ^ クレイン 2010, p. 219,443.
  18. ^ a b マノニほか 1987, p. 167.
  19. ^ 三光 2017.
  20. ^ 鈴木 2008, pp. 235–236.
  21. ^ Swissinfo 2020.
  22. ^ マノニ 2015, pp. 134–135.
  23. ^ マノニほか 1987, pp. 220–221.
  24. ^ 鈴木 2008, p. 231.

参考文献

外部リンク




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