サーディー・ウルマクとは? わかりやすく解説

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サーディー・ウルマク

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/08/28 18:40 UTC 版)

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サーディー・ウルマク
Mahmut Sadi Irmak

トルコ共和国
第38代首相
任期 1974年11月17日1975年3月31日

出生 1904年5月15日
コンヤ県セイディシェヒル
死去 1990年11月11日
イスタンブール

マフムート・サーディー・ウルマクMahmut Sadi Irmak, 1904年5月15日1990年11月11日)は、トルコ政治家生理学者。1974年から翌年にかけて、第38代トルコ共和国首相を務めた。

経歴

オスマン帝国コンヤ県セイディシェヒル生まれ。コンヤの学校を卒業し、生物学の教師となる。しかしすぐに職を辞してイスタンブール大学法学部に入学。1925年、国費留学生としてドイツに留学し、生物学医学を学ぶ。1929年にベルリン大学医学部を卒業。ハーゲンデュッセルドルフの病院で助手を務めた。トルコに戻ると、1933年にイスタンブール大学医学部講師、1939年に教授となった。

1943年、コンヤ選挙区からトルコ大国民議会選挙に出馬して当選。1945年から翌年まで、シュクリュ・サラジオウル内閣で労働相を務める。しかし1950年の初の自由選挙に落選して医学に戻り、ミュンヘンやイスタンブールで教授を務めた。1974年、上院議員に指名される。同年、議会内の激しい政争で政局が混迷する中、当時の大統領ファフリ・コルテュルクに指名されて暫定内閣を組閣した。しかし翌年3月に議会で不信任決議が可決され、首相を辞任した。

軍部によるクーデター後の1980年9月、制憲委員会の一員に選ばれた。1981年から1983年まで諮問議会(解散させられていた議会に代わる機関)議長を務めた。イスタンブールで死去した。子供が二人おり、娘はイスタンブール大学教授として大学のアタテュルク主義研究所所長を務めている。

外部リンク


先代:

(新設)
トルコ共和国労働相
1945-1947年
次代:
ベキル・バルタ
先代:
ジャヒト・カラカシ
(国民議会)
諮問議会議長
1981-1983年
次代:
ネジメッティン・カラドゥマン
(大国民議会)




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