ゴーティエとフランス人たち
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/19 16:16 UTC 版)
「民衆十字軍」の記事における「ゴーティエとフランス人たち」の解説
フランス人軍勢を率いる隠者ピエールは1096年4月12日にケルンに集結し、ここでドイツ人に説教してさらに十字軍参加者を募ろうとした。しかしフランス人らはピエールの説教やドイツ人の集結を待っていられず、ゴーティエ・サンザヴォワールの指揮下で数千人が出発し、5月8日にはハンガリー領内に達した。彼らは大過なくカールマーンの治めるハンガリーを通り、サヴァ川とドナウ川の交わる地点にあるハンガリーと東ローマ帝国との国境の町・ベオグラードに着いた。 大軍勢の到着にベオグラードの東ローマ帝国の司令官は驚き、このような場合の対処に関する命令もなかったことから市内立入を拒んだ。十字軍の群集らは食糧の補給を絶たれ農村を略奪しはじめ、やがてベオグラードの兵との小競り合いになる。さらに悪いことにゴーティエの部下16人がサヴァ川対岸のハンガリー領内の町セムリン(現在のゼムン)の市場を略奪し捕まり、脱がされた甲冑や服を城壁の外に吊るされた。最終的に十字軍はニシュへの通過を許された。ニシュでは食糧の補給を受け、東ローマの首都コンスタンティノープルから領内通過の許可の知らせを受け取った。7月の終わりまでに、東ローマ兵の先導により一行はコンスタンティノープルへたどり着いた。
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