ゴンサーロ・デ・ボルボン・イ・バッテンベルグとは? わかりやすく解説

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ゴンサーロ・デ・ボルボン・イ・バッテンベルグ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/08/12 13:38 UTC 版)

ゴンサーロ
Gonzalo
ボルボン家

出生 (1914-10-24) 1914年10月24日
スペイン王国マドリード
死去 (1934-08-13) 1934年8月13日(19歳没)
オーストリア、ペルチャッハ
埋葬 1985年4月25日(改葬)
スペインエル・エスコリアル修道院
父親 アルフォンソ13世
母親 ヴィクトリア・ユージェニー・オブ・バッテンバーグ
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ゴンサーロ・デ・ボルボン・イ・バッテンベルグGonzalo de Borbón y Battenberg, 1914年10月24日 - 1934年8月13日)は、スペインの王族、スペイン王子(Infante de España。スペイン王フアン・カルロス1世の父方の叔父にあたる。

全名はゴンサーロ・マヌエル・マリーア・ナルシソ・アルフォンソ・マウリシオ(Gonzalo Manuel María Bernardo Narciso Alfonso Mauricio)。

生涯

スペイン王アルフォンソ13世と王妃であるバッテンベルク公女ヴィクトリア・ユージェニー(エナ)の間の末息子(第7子、五男)として生まれた。母はイギリスヴィクトリア女王の孫娘の1人だったが、女王に起因する血友病の保因者でもあったため、ゴンサーロと長兄のアストゥリアス公アルフォンソ・ピオは血友病を抱えて生まれた。1931年4月にスペインに共和政府が樹立されると、家族とともに国外に脱出し、パリフォンテーヌブローで亡命生活を送った。本来の入学予定先だったマドリード・コンプルテンセ大学への入学を断念し、1933年にベルギールーヴェン・カトリック大学工学部に入学した。

1934年8月、家族とともにヴェルター湖畔のペルチャッハ(オーストリアケルンテン州クラーゲンフルト郡)にあるラディスラウス・ホヨス伯爵(Ladislaus Hoyos)の別荘で夏の休暇を過ごした。8月11日、長姉ベアトリスと一緒に自動車でクラーゲンフルトを訪れ、別荘に戻る途中で事故に遭遇した。ベアトリスが運転していたところ、自転車を避けようとして壁に衝突したのである。ベアトリスは軽傷で済み、ゴンサーロも大した怪我が無いように見えたため、姉弟はそのまま別荘に帰った。しかしすぐにゴンサーロ付きの侍医が王子の腹部の深刻な内出血に気付いた。ゴンサーロは心臓が弱いため手術は不可能であり、なすすべなく2日後に亡くなった。19歳だった。

遺骸はペルチャッハの墓地に埋葬されたが、1985年になってエル・エスコリアル修道院内の王子廟(Panteón de Infantes)に移された。

参考文献

  • Arnold McNaughton: The Book of Kings: A Royal Genealogy, London (1973)
  • Alison Weir: Britain's Royal Family: A Complete Genealogy, London (1999)



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