オリバー・ハザード・ペリーとは? わかりやすく解説

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オリバー・ハザード・ペリー

(オリヴァー・ハザード・ペリー から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/08/27 01:48 UTC 版)

オリバー・ハザード・ペリー
Oliver Hazard Perry
生誕 1785年8月23日
ロードアイランド州 ニューポート
死没 (1819-08-23) 1819年8月23日(34歳没)
ベネズエラ オリノコ川
所属組織 アメリカ海軍
軍歴 1799 -1819
最終階級 海軍代将
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オリバー・ハザード・ペリーOliver Hazard Perry, 1785年8月23日 - 1819年8月23日)はアメリカ海軍軍人米英戦争に従軍し、エリー湖の戦いにおいてアメリカ海軍に決定的な勝利をもたらし「エリー湖の英雄」と呼ばれた。マシュー・ペリーの兄。

経歴

ペリーは海軍軍人であるクリストファー・レイモンド・ペリー(1760年12月4日 - 1818年6月8日)とサラ・ウォーレス・アレグサンダー(1764年 - 1830年12月4日)の息子であり、末弟は日本の開国をもたらしたマシュー・カルブレース・ペリーである。

ペリーはロードアイランド州ニューポートで育ち、1799年4月7日に海軍兵学校に入学、卒業後は父親のフリゲート、ジェネラル・グリーンに配属となる。彼の初めての戦闘経験は1800年2月9日のハイチであった。

米英戦争中の1813年9月に発生したエリー湖の戦いでは、敵艦を沈めることなく全部拿捕して勝利をおさめ、有名になった。

1819年のベネズエラ遠征で、土着の昆虫による疾病により死去した。

孫のトーマス・サージェント・ペリー

孫に画家ジョン・ラファージの妻マーガレット[1]、その弟に文芸評論家で教師のトーマス・サージェント・ペリーがいる[2]。トーマスは1898年に慶応義塾大学英文学教師として来日し、妻で画家のリラ・キャボット・ペリーと3人の娘とともに3年間日本に滞在した[2]。娘のうち三女のアリスは駐日米国大使ジョセフ・グルーの妻として1932年に再来日した[2]

栄誉

アメリカ海軍は、次の艦艇に、彼の名に由来する命名をした。

次に掲げる郡は、彼の名にちなんで命名された。

エリー湖中のサウス・バス島(オハイオ州)にはペリーの勝利と国際平和記念建造物英語版があり、アメリカ合衆国国定記念建造物に指定されている。2013年はこの建造物をデザインした25セント硬貨がアメリカ・ザ・ビューティフル25セント硬貨のひとつとして発行された[3]

脚注

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