オットー・グートフロイント
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オットー・グートフロイント
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Otto Gutfreund | |
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ジョルジュ・カルスによる肖像画 (c1913)
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生誕 | 1889年8月3日 ドヴール・クラーロヴェー・ナト・ラベム(Dvůr Králové nad Labem) |
死没 | 1927年6月2日 (37歳没) プラハ |
オットー・グートフロイント(Otto Gutfreund、1889年8月3日 - 1927年6月2日)は、チェコの彫刻家である。チェコの現代彫刻を代表する彫刻家で、初期のキュビスムの歴史において重要な人物であった[1]。
略歴
チェコ、フラデツ・クラーロヴェー州のドヴール・クラーロヴェー・ナト・ラベム(Dvůr Králové nad Labem)のユダヤ人の家庭に生まれた。1903年からベヒニェ(Bechyně)の陶芸学校で学んだ後、1906年から1909年までプラハの工芸学校で学んだ。1909年にパリで短期間、過ごし、アカデミー・ドゥ・ラ・グランド・ショミエールで彫刻家のアントワーヌ・ブールデルの学生になった。
チェコのキュビスムの画家エミール・フィラ(1882-1953)とボフミル・クビシュタ(1884-1918)らとキュビスムのスタイルを研究し、パブロ・ピカソやアレクサンダー・アーキペンコとキュビスム彫刻の先駆者の一人となった。1911年にプラハで「Skupina výtvarných umělců」という美術家グループを設立し、1912年には2回の展覧会を開催した。1913年にベルリンで開かれた大規模な現代美術展「最初のドイツ秋季展」に出展し、その後、ヘルヴァルト・ヴァルデン(Herwarth Walden: 1879-1941)が経営する「Der Sturm」画廊などにも出展した。
第一次世界大戦が始まると1914年に画家のフランティセック・クプカとともにチェコ人で構成された軍団に入隊し[2]、オーストリア=ハンガリー帝国軍と戦たったが、1916年に軍団兵の非人間的な環境に抗議して、フランス軍への転属を求めたことが、上官に対して、反抗的であると見なされ、プロヴァンスの収容所に送られ、1916年から1919年の休戦後までそこに留置された。
第一次世界大戦後のパリで貧窮した生活を送った後、1920年にプラハに戻り、1918年に成立したチェコスロバキア共和国の近代を進める世代のリーダーの一人となった。このころはキュビスムのスタイルから離れ、具象的な作品を制作し、グートフロインの芸術的業績は、新しい共和国の多くの若い芸術家に影響を与えた。
1920年から1927年までチェコの美術家グループ「Cercle artistique Mánes」のメンバーであった。1926年にプラハの工芸学校の教授に任命され、多くの公的な職務も務めた。
1927年6月にプラハのヴルタヴァ川のストジェレツキー島(Střelecký ostrov)で水泳をしていて溺死した。
作品
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不安 (1911/1912)
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ドン・キホーテ (1911/1912)
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チェロ奏者(1912/1913)
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コンサート (1912/1913)
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仕事 (1923)
カンパ博物館 -
戦士たち (1924)
カンパ博物館 -
見上げる女性 (1924)
カンパ博物館 -
彫刻家自身の像(1919)と妻ミラダの肖像彫刻(1923/1924年)
脚注
- ^ Selon Meda Mládková dans Otto Gutfreund, Museum Kampa, Prague, 2003.
- ^ Source : Radio Prague.
参考文献
- Jiří Šetlík, Meda Mládková, Otto Gutfreund, Museum Kampa, Prague, 2003 (ISBN 80-239-1466-9) (cs + en)
- Tomáš Vlček, Pavel Liška, Jiří Švestka, Czech Cubism 1909 - 1925, Modernista, Prague, 2003 (ISBN 80-239-6659-6) (en)
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