エロフェイ・ハバロフの遠征
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 19:42 UTC 版)
「清露国境紛争」の記事における「エロフェイ・ハバロフの遠征」の解説
1649年には、レナ川流域にいた裕福な事業家エロフェイ・ハバロフ(1610年ごろ-1667年ごろ)が、ヤクーツク長官フランツベコフに、アムール川流域への遠征を願った。彼はこの遠征に自分でも投資し、ヤクーツク長官も国庫から3万ルーブル貸し付けた。彼らはこの遠征で大きな利益が得られると見込んでいたのである。ハバロフ隊はトゥンギル川、ウルカ川を経てアムール川に達したが、地元民の抵抗によりヤクーツクに戻った。 1650年、エロフェイ・ハバロフはふたたび百数十名のコサック兵と正規兵を引き連れ、大砲3門を持ち、アムール川遠征に出発した。ハバロフは他の征服者とは違い、部族長を懐柔するといった策はとらず、先住民を容赦なく虐殺した。1651年には、清の建てた要塞ヤクサ(雅克薩)を奪って、アルバジンと名付け、嫩江(ノンこう)近辺のソロン部(満州語。索倫)部住民を殺害した。ハバロフはアムール川を下りながら沿岸都市を征服していき、ほとんど全流域を占拠した。
※この「エロフェイ・ハバロフの遠征」の解説は、「清露国境紛争」の解説の一部です。
「エロフェイ・ハバロフの遠征」を含む「清露国境紛争」の記事については、「清露国境紛争」の概要を参照ください。
- エロフェイ・ハバロフの遠征のページへのリンク