イグナシオ・フローレス
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/01/01 13:07 UTC 版)
| この名前は、スペイン語圏の人名慣習に従っています。第一姓(父方の姓)はフローレス、第二姓(母方の姓)はオランサです。 |
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| 名前 | ||||||
| 本名 | イグナシオ・フローレス・オランサ Ignacio Flores Ocaranza |
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| ラテン文字 | Ignacio Flores | |||||
| 基本情報 | ||||||
| 国籍 | ||||||
| 生年月日 | 1953年7月31日 | |||||
| 出身地 | メキシコシティ | |||||
| 没年月日 | 2011年8月11日(58歳没) |
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| 身長 | 176cm | |||||
| 体重 | 75kg | |||||
| 選手情報 | ||||||
| ポジション | DF | |||||
| クラブ1 | ||||||
| 年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
| 1971-1972 | 28 | (1) | ||||
| 1972-1990 | 389 | (11) | ||||
| 代表歴 | ||||||
| 1975-1980 | 12 | (0) | ||||
| 1. 国内リーグ戦に限る。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
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イグナシオ・フローレス(英語: Ignacio Flores Ocaranza、1953年7月31日 - 2011年8月11日)は、メキシコ・メキシコシティ出身の元サッカー選手、元メキシコ代表。サッカー指導者。ポジションはDF。
自国開催の1986年W杯でゴールを決めた、同じメキシコ代表・FWのルイス・エンリケ・フローレスは弟に当たる。
来歴
メキシコシティで生まれ育ち、16歳の時に地元のユースチームである、トルネロ・デ・ロス・バロス(Torneo de los Barrios)でサッカーを始めた。クラブ・アメリカ[2]とCFパチューカの入団テストを受けるもどちらも不合格に終わった。1970年1月にクルス・アスルの入団テストに合格し、ユースチームでプロとしてのキャリアをスタートさせた。1971年/1972年シーズンに28試合に出場して活躍すると、翌1972年/1973年シーズンよりフルチームに加入。以後4度のプリメーラ・ディビシオン(リーグ戦)制覇と2度のカンペオン・デ・カンペオーネス獲得(カップ戦。尚、もう一つのコパ・メヒコは未獲得)に貢献した。守備範囲が広く、攻守の切り替えが上手い事で定評があった。通算18シーズンもクルス・アスルに在籍したフランチャイズ・プレイヤーだった。1990年に36歳で現役引退。エスタディオ・アステカ(メキシコシティ)で開催された、引退試合のCDグアダラハラ戦には、フローレスの勇姿を見ようと多くの観客が詰めかけた。
メキシコ代表には1975年に初招集された。1978年アルゼンチンW杯にも出場した。1980年まで12試合、代表として出場した。
引退後は、クルス・アスルのジュニアアカデミーやBチームのクルス・アスル・オアハカ(es:Cruz Azul Oaxaca、2003年~2006年まで活動した)でコーチを務めていた。
2011年8月11日、メキシコ中南部のクエルナバカ近郊を車で旅行中に、何者かに銃を27発も乱射され、殺害された[1]。58歳没。犯人は不明だが、当所では麻薬密売ギャングたちの抗争地帯となっており、その筋のギャングである可能性が高いと言われている[1]。
タイトル
チーム
いずれもクルス・アスル時代
- プリメーラ・ディビシオン・優勝 : 1972年-1973年、1973年-1974年、1978年-1979年、1979年-1980年
- カンペオン・デ・カンペオーネス : 1972年、1974年
脚注
関連項目
外部リンク
- イグナシオ・フローレス - FIFA主催大会成績(英語)
- イグナシオ・フローレス - National-Football-Teams.com(英語)
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