アウグステ・フォン・バイエルン_(1875-1964)とは? わかりやすく解説

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アウグステ・フォン・バイエルン (1875-1964)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/07 03:32 UTC 版)

アウグステ・フォン・バイエルン
Auguste von Bayern
ヴィッテルスバッハ家
1910年

全名
称号 オーストリア大公妃
出生 (1875-04-28) 1875年4月28日
ドイツ国
バイエルン王国ミュンヘン
死去 (1964-06-25) 1964年6月25日(89歳没)
西ドイツレーゲンスブルク
埋葬 1964年
西ドイツ、フェルダッフィング →
1992年
 ハンガリーブダ城(改葬)
配偶者 ヨーゼフ・アウグスト・フォン・エスターライヒ
子女 一覧参照
父親 レオポルト・フォン・バイエルン
母親 ギーゼラ・フォン・エスターライヒ
宗教 キリスト教カトリック教会
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アウグステ・フォン・バイエルンドイツ語: Auguste von Bayern, 1875年4月28日 - 1964年6月25日)は、バイエルン王国の王族で、オーストリア大公ヨーゼフ・アウグストの妃。

生涯

バイエルン王子レオポルトとその妻のオーストリア大公女ギーゼラの間に次女として生まれた。名前は父方の祖母アウグステ・フェルディナンデにちなむ。アウグステは1893年11月15日、オーストリア皇族のヨーゼフ・アウグストと結婚した。

第一次世界大戦中、アウグステは負傷者たちの看病や生活支援に奔走した。アウグステは「鉄のために金を供出しました(Gold gab ich für Eisen)」運動の推進者となり、戦後は数多くの福祉慈善組織を創設した。

ヨーゼフ・アウグスト大公一家は1944年にそれまで住んでいたハンガリーを出国し、いったんアメリカ合衆国に渡ったものの、その後ヨーゼフ・アウグスト大公の姉のトゥルン・ウント・タクシス侯妃マルガレーテ・クレメンティーネを頼ってドイツに移った。アウグステは1964年にレーゲンスブルクにおいて89歳で亡くなった。

子女

夫ヨーゼフ・アウグストとの間に6人の子供をもうけたが、うち2人は夭折した。

  • ヨーゼフ・フランツ・レオポルト・アントン・イグナティウス・マリア(1895年 - 1957年) - 1924年にザクセン王女アンナと結婚
  • ギーゼラ・アウグスタ・アンナ・マリア(1897年 - 1901年)
  • ゾフィー・クレメンティーネ・エリーザベト・クロティルデ・マリア(1899年 - 1978年)
  • ラディスラウス・ルイトポルト・ヨーゼフ・アントン・イグナティウス・ベネディクトゥス・ベルンハルドゥス・マリア(1901年 - 1946年)
  • マティアス・ヨーゼフ・アルブレヒト・アントン・イグナティウス・マリア(1904年 - 1905年)
  • マグダレーナ・マリア・ライネリア(1909年 - 2000年)

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