ぶっちぎり横浜銀蠅
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ぶっちぎり横浜銀蠅 | |
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監督 | 村松保宗 |
製作 | 大坂英之 |
出演者 | [1] |
音楽 | 嵐ヨシユキ(THE CRAZY RIDER 横浜銀蝿 ROLLING SPECIAL)[1] |
主題歌 | 「横須賀Baby」(クレイジーライダーレコード、協力:嵐レコード)[2] |
撮影 | 内藤雅行 |
編集 | 大島ともよ[1] |
製作会社 | ユタカプロダクション |
配給 | 東映 |
公開 | 1981年11月7日[3] |
上映時間 | 70分 |
製作国 | ![]() |
言語 | 日本語 |
『ぶっちぎり横浜銀蠅』(ぶっちぎりよこはまぎんばえ)は、1981年11月7日に東映配給により公開された横浜銀蝿のドキュメンタリー映画[1][2][3][4][5]。製作:ユタカプロダクション[2][4]。千葉真一主演の『冒険者カミカゼ -ADVENTURER KAMIKAZE-』との二本立てで全国東映系劇場で公開された[6]。
概要
勉強はダメでも、ロックンロールで日本一になってやると1980年9月21日にプロデビューした横浜銀蝿は、そのツッパリスタイルが、落ちこぼれの中高生たちから圧倒的な支持を受けた[4][5][7]。あっという間にヒットチャートを席巻し、プロデビュー一年目の1981年9月7日に日本武道館公演の快挙を成し遂げた[4]。本作はその武道館公演までの彼らを追ったドキュメンタリーである[3][2][4][5]。
製作クレジットのユタカプロダクションは、横浜銀蝿の所属事務所で[7]、大坂英之は同社の社長[7]。当時は音楽事務所や新興のレコード会社が映画制作に積極的で[8][9][8][10]、アミューズやキティなど、続々映画制作に参入した時期だった[8][9][10]。
キャスト
スタッフ
同時上映
脚注
- ^ a b c d e “ぶっちぎり横浜銀蠅”. キネマ旬報WEB. キネマ旬報社. 2025年7月19日閲覧。
- ^ a b c d e f g h “ぴあ映画チラシ”. ぴあ. 2020年2月25日時点のオリジナルよりアーカイブ。2025年7月19日閲覧。
- ^ a b c “ぶっちぎり横浜銀蠅”. 日本映画製作者連盟. 2025年7月19日閲覧。
- ^ a b c d e f 「冒険者カミカゼ ぶっちぎり横浜銀蠅 誰かが言ったぜ、人生は夢と冒険だってな…。」『映画時報』1981年9月号、映画時報社、19頁。
- ^ a b c 「邦画封切情報『ぶっちぎり・横浜銀蠅』(東映)」『シティロード』1981年11月号、エコー企画、22頁。
- ^ BIOGRAPHY – 横浜銀蝿オフィシャルサイト
- ^ a b c 横浜が生んだロックンローラー、横浜銀蝿・翔さんを徹底解剖!ココがキニナル!「ツッパリ」といえば横浜銀蝿。30周年を迎えた横浜銀蝿の翔さんってどんな人? – はまれぽ.com
- ^ a b c 河原一邦「邦画マンスリー(92) 世はクロスオーバー時代 宇崎竜童、内田裕也、さだまさしetc. 音楽バカが映画バカになって…」『ロードショー』1981年11月号、集英社、244–245頁。
- ^ a b 「洋画ファンのための邦画コーナ ー製作ニュース」『SCREEN』1981年4月号、近代映画社、234頁。
- ^ a b 「噂の真相メモ 映画 余りにもお粗末な『モーニング・ムーンは粗雑に』のシラケぶり」『噂の眞相』1981年8月号、噂の眞相、113頁。
- ^ “東映京撮で二作品に着手す セントラルFの年内合同作”. 週刊映画ニュース (全国映画館新聞社): p. 2. (1981年10月3日)
- ^ 岡田茂「東映(配給)作品」『悔いなきわが映画人生 東映と、共に歩んだ50年』財界研究所、2001年、436頁。ISBN 4-87932-016-1。
- ^ 110.112.第5章「映画とテレビでトップをめざせ!不良性感度と勧善懲悪」 第5節「東映ゼネラルプロデューサー岡田茂・映画企画の歩み(10)千葉真一JACアクション映画 後編」(Internet Archive) - 創立70周年特別寄稿『東映行進曲』
外部リンク
固有名詞の分類
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