「日本のこえ」結成
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「日本共産党(日本のこえ)」の記事における「「日本のこえ」結成」の解説
1964年に締結された部分的核実験停止条約の批准に際して、この対立は表面化した。宮本を中心とする日本共産党主流派は部分的核実験停止条約の批准に反対することを決定したが、同年5月15日、衆議院での批准投票において志賀は自民党や社会党などと同様賛成に回り、参議院では鈴木市蔵が志賀に同調することをあきらかにした。これは党議に反する態度だったため、5月21日の中央委員会総会で志賀と鈴木を除名する決定が下された。このとき神山茂夫は保留、中野重治はこの決定に反対し、2名を擁護した。7月15日、志賀と鈴木たちは『日本のこえ』を創刊した。それは中野によって命名されたものだった。中野と神山は9月1日に共同して共産党批判の声明を発表したため、同月の中央委員会総会で除名処分となり、4人は10月3日に新しい党派の立ち上げを表明した。4人の行動はソ連共産党の支持を受けたが、その一方で、後々日本共産党を名指しで非難し対立することになる毛沢東は、「裏切り者」とみなした志賀らを追放した宮本を持ち上げた。
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