神魂神社
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/11/19 03:06 UTC 版)
概要・歴史
社伝によれば、出雲国造の大祖・天穂日命がこの地に天降って創建したと伝わるが[2]、『延喜式神名帳』、国史や『出雲国風土記』に当社が出現しないが[4]、その理由として、出雲国造家が、自らの祖神を大庭にあった邸内で私的に祀り祭祀を行ったていた、または邸内に祀っていた社が起源であった可能性が強く、そのため文献に記載がなかったと考えられ[1][5]、やがて現在地に勧請され、近隣住民の信仰を集める形となったと考えられている[6]。文献における初見は承元2年(1208年)の鎌倉将軍家下文であり、実際の創建は平安時代中期頃とみられている[6]。
神魂神社のある大庭(おおば)は、出雲の国分寺、国府に近く古代出雲の政治、交通、経済の中心地であり、天穂日命の子孫の出雲国造が住んだと伝わり[2]、出雲国造は出雲大社の宮司家となるが、出雲国造として25代まで当社に奉仕していた[7]。延暦17年(798年)以降、郡司兼務を禁じられ、大庭に別邸を残したまま、現・出雲大社のある杵築(きつき)に居を移すが[8]、出雲国造家の代替わりのときに行われる「神火相続式(おひちぎしき)」、「古伝新嘗祭」の祭祀は、明治初年まで当社に参向して行われており[4]、また大庭の別邸も明治初年まで神魂神社の社頭近くに存在していた[8]。
出雲大社近傍にある意宇六社(熊野大社、真名井神社、揖夜神社、六所神社、八重垣神社、神魂神社)は、出雲国造家の緩い支配下にあったとされ、幕末まで神職の免許、社殿の造営、遷宮には、出雲国造家が関わっていたとされる[6]。特に神魂神社は、他社に比して出雲国造家の強い支配下にあり、享保20年(1735年)の『神魂社規式』に、神社の神主は出雲国造の名代として奉仕する者と記されている[6]。また出雲国造家が、明和9年(1772年)ごろ京都の柳原家へ宛てた書状『出雲両国造家代書状』などによると、神魂神社は出雲大社の摂社であり、神主や別火などの神職は、出雲国造の下司とされ、神魂神社は独立した神社と見なされていなかったことが窺える[6]。
経済的基盤として。鎌倉初期には、出雲国造家は神社の北西付近を神魂神社神領として所有し、地頭職を兼ねていた。天正13年(1585年)には、吉川元春などから86石ほどの祭田が与えられ、慶長6年(1601年)には、新・国主の堀尾氏から、71石4斗の社領が寄進を受け、寛永15年(1638年)にも新・国主の松平直政からも寄進をうけ、計221石4斗の社領を所有するようになり、幕末まで社領は安堵され、出雲国内では、出雲大社の2730石、日御碕神社の1280石に継ぐ石高となっている[9]。
- ^ a b c d 山陰中央新報社 1981, p. 24.
- ^ a b c 神社名鑑 1963, p. 659.
- ^ 神道大辞典 1941, p. 366.
- ^ a b 並河萬里写真財団 1998, p. 64.
- ^ 並河萬里写真財団 1998, pp. 64–66.
- ^ a b c d e f g 並河萬里写真財団 1998, p. 66.
- ^ a b 現地案内板による。
- ^ a b c d e f g “神魂神社本殿”. 国指定文化財等データベース/文化庁. 2022年10月31日閲覧。
- ^ 並河萬里写真財団 1998, pp. 66–67.
- ^ 神社名鑑 1963, p. 658.
- ^ 出雲国 意宇六社めぐり ガイドマップによる。
- ^ “神魂神社心御柱古材(神魂神社)”. 独立行政法人国立文化財機構 東京文化財研究所. 2022年10月31日閲覧。
- ^ 足立 1940, p. 30.
- ^ a b 並河萬里写真財団 1998, p. 70.
- ^ a b c 近畿建築士協議会 1986, p. 17.
- ^ 『神社の由来がわかる小事典』三橋健、PHP研究所, 2007
- ^ 近畿建築士協議会 1986, p. 20.
- ^ 並河萬里写真財団 1998, p. 69.
- ^ 藤岡 1978, p. 132.
- ^ a b “神魂神社末社貴布祢稲荷両神社本殿”. 国指定文化財等データベース/文化庁. 2022年10月31日閲覧。
- ^ “県指定文化財一覧(工芸品)”. 島根県教育庁文化財課. 2022年10月31日閲覧。
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