田島神社 祭神

田島神社

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/27 01:18 UTC 版)

祭神

祭神は次の5柱。主祭神の3柱は宗像大社祭神の宗像三女神に同じ姫神。宇佐神宮や久留米周辺、天山、背振山にも祀られるなど、有史以前からの北部九州土着の神とされる[2]。田島神社では「田島三神」と総称し、中でも田心姫尊を中尊としている。

主祭神
配祀神

歴史

創建

創建は不詳。一説には弥生時代後期とされている。[2]鎮座地の加部島はかつては「姫神の鎮座まします島」として「姫島」・「姫神島」と呼ばれていた。

天平3年(731年)に相殿に稚武王を配祀し、天平10年(738年)に聖武天皇より大伴古麻呂に詔命があり「田島大明神」の神号が贈られたとする。[3] この天平3年を創始とする古書もある。

稚武王配祀と上松浦明神

稚武王(仲哀天皇の弟)の配祀については、神功皇后三韓征伐より凱旋の折、「懇ろに奉斎されよ」と当社に駐留・警護を命じられたという逸話による。天平10年、兵部大丞になりたての大伴古麻呂が使いとしてきているが、同じく平戸に駐留を命じられたとする弟の十城別王を祀る志々伎神社も天平10年(738年)に「松浦明神」と崇められたとしている。[4]稚武王の「田島大明神」と十城別王の「松浦明神」は遣唐使廃止後の延喜式神明帳(927年)の中では「上松浦明神」と「下松浦明神」となり、国防の要素の強い兄弟神社のような扱いになっている。天平10年は使者の大伴古麻呂が兵部大丞(現在で例えると国防省3番目の地位)になった年でもある。

  • 延喜式巻第二十三 延喜式神明帳頭註 肥前松浦郡 「田嶋ハ仲哀帝ノ弟稚武王ナリ上松浦明神ト號スナリ。志々伎ハ稚武王ノ弟十城別王ナリ下松浦明神ト號スナリ。」

現在、田島神社より2㎞ほど離れた杉ノ原牧場(壱岐が目視でき、海原を見渡す広い視野が確保された場所)にある瓢塚古墳(佐賀県指定史跡)は内部が朱に塗られていたとのことから稚武王の墳墓とも言われている。[5]

概史

新抄格勅符抄大同元年(806年)牒によると、当時の「田島神(田嶋神)」には神戸として16戸が肥前国から充てられていた。

(「戸」とは戸籍作成上の最小集落単位のことで現代の感覚でいう1戸(軒)のことではなく「字」または「小字」にあたる。16戸ということは島内に限らず周辺地域一帯と見ることができる。この地域からの税収が神社の補修や催事の費用に充てられ、神官の俸給とすることは禁止されていた。)

延長5年(927年)成立の『延喜式神名帳では肥前国松浦郡に「田島坐神社(田嶋坐神社) 名神大」と記載され、肥前国唯一の名神大社に列している。

江戸時代には唐津藩祈願所となった。

明治維新後、1871年(明治4年)に近代社格制度において国幣中社に列した。戦後は神社本庁別表神社に列している。

神階

  • 天安3年(859年)1月27日、従五位下から従四位下 (『日本三代実録』) - 表記は「田島神(田嶋神)」。
  • 貞観2年(860年)2月8日、従四位下から従四位上 (『日本三代実録』) - 表記は「田島神(田嶋神)」。
  • 貞観15年(873年)9月16日、従四位上から正四位下 (『日本三代実録』) - 表記は「田島神(田嶋神)」。
  • 貞観18年(876年)6月8日、従四位上ママから正四位下ママ (『日本三代実録』) - 表記は「田島神(田嶋神)」。
  • 元慶8年(884年)12月16日、正四位下から正四位上 (『日本三代実録』) - 表記は「田島神(田嶋神)」。

国史の神階を受けた時代は実質的に最後の遣唐使となった第19回遣唐使帰還の後、まだ遣唐使廃止が決定されていない時期。久留米の高良大社、宗像の宗像大社の後を追いかけるように昇階していることから遣隋使・遣唐使運用上の連帯性が考えられる。[6][2]

遣隋使・遣唐使

遣唐使の記録の中では、松浦の湊という漠然とした記載しか見うけられない。しかし、遣唐使直後の特別扱いとも言える昇階や朝廷の記録とリンクする社伝があることから単なる遣唐使の寄港地ではなく、朝廷に近い存在の宗像大社と協力し、北部九州沿岸土着の神社代表として積極的に関わっていたことが見て取れる。この地域は北ルート(呼子・壱岐・対馬ルート)に限らず、南ルート(五島より横断ルート)・南島ルートにおいても必ず通過する地点である。終始、土着の神社代表として遣隋使・遣唐使運航に積極的に関わり続けた結果が神階の特別扱いになったということが言える。[6]六国史上、最後の昇階となる884年の43年後、延喜式神名帳(927)の中で肥前国[7]唯一の名神大社としての崇敬を受けているのも同じ理由と考えられる。

摂末社

佐與姫神社
  • 佐與姫神社(佐用姫神社) 佐用姫伝説の松浦佐用姫を祀る。佐用姫が変じたとされる石(望夫石)を御神体とし、覆う形で社殿が建てられている[8][9]。田島神社境内の望夫石を見た豊臣秀吉が雨ざらしではあまりに忍びないと社領百石を佐用姫社に寄進したことで社殿が建てられたとし、豊臣秀吉寄進の朱印状が現存する。この社領は徳川政権の江戸時代も寄進され続けた。
  • 御崎神社 御祭神は級長津彦神級長津姫神猿田彦神の三柱。文禄の役の際、軍船「小鷹丸」は大陸に七度の往復をし無事に帰国した。後年、その船体の一部が船霊の御守護と共に海上安全の守護神として祀られている。[10] 

この二社はどちらも地元特有の由緒を持つ神社である。境内には有名神社より勧請された分社や合祀社等は存在しない。しかし、島内には各地区に点在しており、田島神社の春祈祷の際に「区社参り」として祈祷に周る習わしがある。他に島内では各戸それぞれの庭の傍らに稲荷社を祀る家がとても多い。


  1. ^ 牧川 1902, p. 113.
  2. ^ a b c d 『田島神の創祀と宗像神との関係について』 江永次男 昭和62年
  3. ^ 『松浦古事記』寛政元年と思われる。 
  4. ^ 『肥前歴史叢書8 式内社 明神社 志々伎神社』芸文堂、1986年5月8日。 
  5. ^ 『西日本民俗文化考説』九州大学出版会、1988年。 
  6. ^ a b 『古代諸国神社神階制の研究』岩田書院、2002年8月 2002、391-395頁頁。 
  7. ^ 佐賀県と壱岐・対馬を除く長崎県
  8. ^ 村尾力太郎「「筑紫の野」と「筑肥の海」の懐古―日本・海外宗教交渉略史研究―」『早稲田商学』第205号、103頁、1968年https://books.google.com/books?id=fOZCAQAAIAAJ&q=望夫石 
  9. ^ 牧川 1902, p. 116.
  10. ^ 『唐津名勝案内 牧川茂太郎編』此村書店、1902年10月10日、116頁。 
  11. ^ 『ふるさとの民俗 佐賀の芸能・祭り』佐賀県文化館、1967年、136-137頁。 
  12. ^ 太刀〈銘備中国住人吉次/〉 - 国指定文化財等データベース(文化庁
    国指定(美術工芸品の部)01 > 太刀(銘 備中国住人吉次)(佐賀県ホームページ)。
  13. ^ 県指定(天然記念物の部)02 > 加部島暖地性植物群落(佐賀県ホームページ)





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