生出神社
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/01 06:43 UTC 版)
八朔祭
生出神社の例祭は八朔祭と呼ばれる[2]。八朔祭は後に屋台の巡行や大名行列など附祭が加わり発達し、現在では毎年9月1日に行われている[1][2]。
八朔祭は天保年間にはすでに「往古より供奉順行」と伝わっている[2]。新町の屋台には文化9年(1812年)の墨書が見られる[1]。宝永元年(1704年)に秋元氏が武蔵国川越藩に転封されると、残された道具を用いて創始された祭礼とする伝承がある[1][2]。
神輿が各地区からの山車を帯同し、谷村城下まで巡行した[1]。
谷村城下の早馬町・下町・新町・中町の屋台飾幕4枚が現存しており、葛飾北斎など江戸で活躍した浮世絵師が手がけている[2]。現存する早馬町の屋台幕の下絵は葛飾北斎が手がけたという[1][2]。
北斎が下絵を手がけたとされる幕絵は「八朔祭屋台後幕「竹に虎図」」で、江戸後期の寛政後期から文化年間のものであると考えられている[2]。黒のビロードで縁取った緋色の羅紗地に刺繍で虎や竹林・水渓を描いた図で、画面左下に署名「東陽 画狂人北斎筆」の落款と「葛しか」の印がある[2]。落款は北斎が寛政12年(1800年)頃から文化7年(1810年)頃まで用いたものであると指摘される[2]。一方、「葛しか」の印は北斎が60歳に用いられたものであるが、幕絵の印は破損して判読不能であったものを昭和50年代に修理していることから、当初の印ではない可能性が指摘されている[2]。八朔祭の屋台幕絵では、ほかに早馬町の後幕「牧童牛の背に笛を吹く」や新町の後幕「鹿島踊り図」、下町の泥幕「注連縄図」はいずれも北斎の落款は残されていないが、北斎が下絵を手がけたとする伝承がある[2]。
北斎以外の浮世絵師では、仲町の後幕は鳥文斎栄之「桜に駒図」、早馬町の中幕は二代柳文朝「野馬図」、下町の中幕「三番叟図」・仕切幕「草花図」が清水岳麟の手がけたものである[2]。北斎の幕絵や栄之の落款の使用時期から、郡内織を介した江戸呉服商との関係のなかで著名な浮世絵師との関わりが生まれ、寛政後期から文化初頭に屋台が整えられたと考えられている[2]。
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