思想の科学
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/10/27 16:05 UTC 版)
概要
1946年、鶴見俊輔、丸山眞男、都留重人、武谷三男、武田清子、渡辺慧、鶴見和子の7人の同人が太平洋協会出版部内に先駆社を創立し『思想の科学』を創刊した。
鶴見俊輔は、丸山ら5人について、「その人たちは、この戦争反対する立場を持っているということだけで精一杯で非常に孤独を感じているから、大変に心を開いて彼女(鶴見和子)と付き合ってくれたわけだ。それが『思想の科学』のオリジンだね」と語っている[1]。
1961年12月、天皇制を特集した62年1月号に際して当時の出版社であった中央公論社が、編集を担当していた思想の科学研究会に無断で雑誌を断裁した。理由として、
内容どうこういうのではなく、時期的にまずいという一語につきる[2]
1961年2月1日、「風流夢譚」に激高した右翼少年が中央公論社長・嶋中鵬二邸を訪問し、夫人ならびに家政婦を殺傷した(嶋中事件)事件の影響であったと言われ、当時の編集部の社員の話によると、
「営業部長が手にして、『天皇制特集号』という文字のみに反応し、『新たな刺激を右翼に与えて、新たな事件が起こっちゃ大変だ』という大変意識が働いて、すぐに幹部会になり、幹部会は営業局長、総務局長、編集局長が中心となって『すぐに発行を中止しましょう』という結論が出ちゃった。」廃棄処分は僅か数時間で決まったという。
また、この号の断裁前に公安調査官や右翼の三浦義一に読ませていたことが発覚し、主要メンバーが中央公論社への執筆を拒否することとなった。思想の科学研究会は、天皇制特集号の廃棄に対する対応を協議するため、緊急の評議委員会が開かれ、20人が集まった。その主な内容は「とにかくこれは言論の自由に対するひとつの危機である。これをちゃんと上手く処理しなければ思想の科学研究会は責任を問われる、思想の自由についての責任を問われる。」またオブザーバーで参加した人の話によると、「鶴見さんが『中央公論社と喧嘩しないで別れたい』と。中央公論の嶋中社長が鶴見さんの小学生の頃の幼馴染みで、中公版の思想の科学はずっと赤字で発行されていたので、中央公論社及び嶋中社長に申し訳がないという気持ちが鶴見さんにはあって、筋から言えば中央公論社にもまずい所が色々あるが、それを言わないで別れたいというのが鶴見さんの意向であり、評議委員会の流れも大体それで纏まっていた。ああ、これは鶴見さんの会なんだな、その時初めて僕はわかった。鶴見さんの意向が強くてそれにみんな沿っていった。」[3]
思想の科学研究会は11時間徹夜で協議した結果、次のような「確認事項」を中央公論社に提出した。
その処置は出版の刊行から見て遺憾な点があった。これまで思想の科学の発行を続けてくれた同社の好意に感謝する。[4]
という最小限の義理人情を守った上で筋を通し、それまでの長い友情、協力関係に感謝の意を表した。 しかし、研究会会員のひとりである藤田省三はこの対応に対し、
私信と社会的ビジネスを混同しているのではないか、問題は天皇制批判の自由という市民的自由の根幹を崩落させたことの社会的責任をはっきりさせることではないか。[5]
これを受け会員40人が参加し、臨時総会を開き、藤田と議論を交わした。その後、新たに中央公論社に声明を出した。
思想・言論の自由は、批判の自由を基礎としている。中央公論社が雑誌『思想の科学』天皇制特集を廃棄したことは、この原則を大きく崩す方向に働いている。[6]
そのため『思想の科学』も中央公論社から離れ自主刊行されることになり、1962年3月に有限会社思想の科学社を創立した。初代の代表取締役に哲学者の久野収が就任した。自主刊行第一号62年4月号は「特集・天皇制」、内容は断裁廃棄された新年号と同じ内容に解説付捕捉その他の記事を8頁分だけ追加したものだった。[7]
1996年3月に刊行された5月号をもって通巻536号で休刊した。
太平洋戦争が起こった原因
思想の科学の活動目的は、「第一に敗戦の意味をよく考え、そこから今後も教えを受け取る」ことである。そこで鶴見は、最初の論文として、「大衆は何故、太平洋戦争へと突き進んでいったのか?」を問い始める。その理由の一つとして、「言葉による扇動である」と考えた。以下論文より
言葉のお守り的使用法とは、擬似主張的使用法の一種であり、意味がよくわからずに言葉を使う習慣の一つである。軍隊、学校、公共団体に於ける訓示や挨拶の中には必ず之(これ)らの言葉が入っている[8]。
つまり
などが「お守り言葉」にあたる。政府はこの言葉を巧みに使って政策を正当化し、戦争の実相を伝えなかった、と論文にはある。更に、
大量のキャッチフレーズが国民に向かって繰り出され、こうして戦争に対する「熱狂的献身」と米英に対する「熱狂的憎悪」とが醸し出され、異常な行動形態に国民を導いた[8]。
- ^ NHK教育テレビ『ETV特集』「鶴見俊輔〜戦後日本 人民の記憶〜」(2009年4月12日放送)[1]より
- ^ 毎日新聞1961年12月28日付
- ^ a b 日本人は何をめざしてきたのか 2014年度 知の巨人たち - NHK
- ^ 『思想の科学会報』第32号 1962年2月7日付
- ^ 『日本読者新聞』1962年2月19日付
- ^ 『思想の科学会報』 第35号 1962年3月15日付
- ^ 1962年4月号通巻37号「復刊のことば」1頁より
- ^ a b 「言葉のお守り的使用法について」『思想の科学』創刊号、1946年5月
- ^ a b 共同研究「転向」より
- ^ a b c 『「思想の科学」五十年 源流から未来へ』(思想の科学社)P.56
- ^ 加太こうじ『サボテンの花』(廣済堂文庫)P.195
- ^ a b 日外アソシエーツ現代人物情報
- ^ 20世紀日本人名事典
- ^ 上野博正氏死去/思想の科学社社長
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