廣福寺 (玉名市)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/01/09 03:45 UTC 版)
歴史
創建の年代及び由来には諸説ある。
寺伝では、正平12年(1357年)、菊池武澄が、肥後国菊池郡の聖護寺より大智禅師を開山に迎え開基したという[1]。
より正確には次のようなものである。大智が招かれていた聖護寺は僧尼未分離の寺であった。そのため、大智は僧尼が分離された寺の建立を望んでいた。菊池武重の母・慈春尼は、庶子の武澄にこれを伝え、正平11年(1356年)、武澄は、石貫寺という既存の寺を、大智を開山とする曹洞宗瑩山門派の寺にすることを発願する。しかし翌年死去。武澄の妻・了悟尼が武澄の遺志に従って寺地を寄進し、廣福寺が成ったという[2]。
一方、『肥後国誌』には、大智禅師は聖護寺を開いたが、戦乱の際に大智が菊池武時を寺に匿ったことから、後に肥後を再び平定した武時が、このときの大智の恩に謝するため、元徳2年(1330年)、廣福寺を開基したとある[3][4][5]。
寺は菊池氏代々の菩提所として栄えたが、菊池氏の衰退とともに寺勢も衰えた。 その後、肥後に入国した加藤清正が寺領を寄進し、寺は再興された。寛永17年(1640年)までは、大智禅師が開いた加賀にある祇陀寺の末寺であったが、同年、永平寺の直末となった。
菊池氏代々の菩提所であったことから、寺には菊池氏歴代の位牌や、菊池氏に関する古文書、寺宝が数多く残る。
境内
- 御前水 - 寺の門前には小さな泉がある。これは豊臣秀吉が九州に下向した際に使った「御前水」と言われ、加藤清正以来、その後肥後を領した細川氏に至っても、藩主がこの辺りに出駕した際は、その度にこの水を用いたという[6]。
- 山門 - 「小岱八十八ヶ所霊場」の札が掛かる
- 本堂 - 現在の本堂はかつての座禅堂を移したもの。往時は、100名もの僧がここに籠り、読経の声は近郊にまで響いたという[7]。
- 開山堂(菊池一族位牌堂)
- 庫裡
- 仇討供養塔 - 日本最後の仇討の1つ[8]に挙げられる玉名市石貫の仇討[9]で敵の遺体が廣福寺裏手の墓所に仮埋葬され、現在は仇討供養塔が建つ。
文化財
重要文化財(国指定)
熊本県指定重要文化財
- 廣福寺所蔵太平野寺・小山観音堂関係文書および正法寺絵図[4]
玉名市指定重要有形文化財
- ^ 熊本県庁ホームページ「廣福寺(こうふくじ) 玉名市」
- ^ 『国史大辞典 第5巻』492頁など
- ^ 『肥後国誌』561頁
- ^ もっとも、『国史大辞典 第5巻』492頁では、この説の根拠となる菊池武時寄進状には形式上の問題があるとされる。
- ^ このほか、観応2年(1351年)、菊地武時の開基とする説などもある。『熊本県の地名』138頁。
- ^ 『肥後国誌』565頁
- ^ 『熊本県大観』玉名郡案内5頁
- ^ 公許の有無や、発生時期などから、日本最後の仇討ちと称されるものは複数ある。文久3年(1863年)の境橋の仇討(大阪府阪南市)、明治4年(1871年)2月の赤穂藩士による高野の仇討(和歌山県橋本市)、同年11月の加賀藩における明治の忠臣蔵(石川県金沢市)、明治12年の旧秋月藩士臼井六郎の仇討(東京都中央区)など。石貫の仇討は明治4年4月であった。
- ^ 文久元年(1861年)、江戸熊本藩邸で、熊本藩士・入佐唯右衛門が、同藩士・下田平八、中津喜平を殺害し、逐電。10年後、入佐が山口藩に捕えられ、熊本藩に護送された。平八の遺児や妻らは、護送役人に頼み、入佐を現在の玉名市石貫の木谷の地に連れ込んでもらい、この地で本懐を遂げた。
- 廣福寺 (玉名市)のページへのリンク