岩田久二雄 人物

岩田久二雄

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/11 14:45 UTC 版)

人物

常木勝次とともに日本における昆虫の行動研究の草分けであり、ハチ類の習性研究をほぼ生涯の課題とした。高校生(旧制)時代から孤独性の狩り蜂花蜂の習性研究を行い、特に狩り蜂の習性研究を発展させた。岩田の業績で特筆されるのは、個々の種の習性(行動 behaviour の連鎖たる habit )の記述のみでなく、繁殖習性の要素を5つの単位習性に分類し、種間の習性を普遍的に比較できる方法を提示したことであり、これによってこの分野は近代的な進化生態学動物行動学に進む道筋の一つを得た。

他方で岩田は文人的、詩人的、芸術家的才能にも富み、最先端の科学や理論とはやや離れたところで評価を得ることともなった。学術論文や総説類のほかに一般向けの観察手記や児童向けの科学読み物も数多く残しているが、これらの著作はいわゆるナチュラリストとしての相貌を感じさせ、「野の詩人」とも称せられた。このことから一部では「日本のファーブル」と呼ばれており、一面では科学者としての業績の側面とその意義を見えにくくさせているとも言われる。

研究論文の対象種を裏付ける証拠標本の多くは母校の京都大学より標本の保存管理体制に優れた九州大学農学部に寄贈され、また晩年になるまで精力的に続けられた昆虫の生態観察の膨大な証拠標本は、兵庫県立人と自然の博物館に遺贈されている。ただ、木原生物学研究所の海南島支所で行われた綿花畑の昆虫の相互作用研究や同時に成された蜂の行動研究の資料や証拠標本は敗戦と共に中華民国に接収され、現在行方不明となっている。

経歴

  • 1906年 - 大阪市船場に生まれる。
  • 1910年 - 豊島郡池田町(のち池田市)に転居。
  • 1913年 - 大阪府池田師範学校の代用付属小学校(のち大阪教育大学附属池田小学校)に入学。
  • 1917年 - 父を亡くし経済的に逼迫する。
  • 1919年 - 大阪府立北野中学校(のち大阪府立北野高等学校)に入学。
  • 1923年 - 大阪高等学校理科乙類に入学、この頃よりハチ類の観察を始める。
  • 1928年 - 京都帝国大学農学部昆虫学講座に入る。卒業後はそのまま無給副士として残留。
  • 1934年 - 福井県立武生高等女学校(のち福井県立武生高等学校)の教諭となる。
  • 1937年 - 職を辞し、台湾へ。恒春の林業試験支所に長期寄寓。この地に居着く決断をするが、それを聞いた妹の婚約者の可児藤吉らの働きにより連れ戻される。
  • 1939年 - 大阪府立高津中学校(のち大阪府立高津高等学校)教諭。
  • 1942年 - 財団法人木原生物学研究所(現横浜市立大学木原生物学研究所)の支所が海南島に作られることとなり、これに参加。戦地への赴任であるため、これに先立ち遺書の意味を込めて、学位論文の内容を包摂した『蜂の生活』(1940年出版)と、自らのフィールドワークを記録した『自然観察者の手記』(1944年出版)を書く。
  • 1944年 - 京都帝国大学理学博士 「Comparative studies on the habits of solitary wasps(単独性狩猟蜂の比較習性学的研究)」。
  • 1946年 - 敗戦により3月に帰国。9月より出身中学校の教諭。
  • 1948年 - 香川県立農業専門学校(のち香川大学農学部)教授
  • 1950年 - 兵庫県立兵庫農科大学教授に。このころからヒメバチ類に目を向ける。
  • 1967年 - 大学の国立移管(神戸大学)に伴い、神戸大学教授へ。それとともに神戸市北区唐櫃台に新居を構える。
  • 1969年 - 4月に神戸大学を定年退職し、湊川女子短期大学教授。10月に神戸大学名誉教授となる。
  • 1980年 - 3月に湊川女子短期大学退職
  • 1977年 - 叙勲三等瑞宝章
  • 1983年 - 最終著作となる『新・昆虫記』を出版
  • 1994年 - 11月29日に滞在先の福岡市で急性心不全にて死去。叙正四位。12月10日に神戸大学瀧川記念館にて農学部昆虫科学教室葬。

研究の姿勢

は幼少時から様々な動物に興味があった。ハチ類に関心を持った理由については、著書の中で旧制高校時代にアメーバヒドラなど様々な生物について学ぶようになった時、それらが既に生物学書に載っているのに対して、それらを採集に行った時にたまたまヤマトハキリバチの巣作りを見つけ、それがどの本にも載っていないことに驚いたということを挙げている。また、その直後に出会ったファーブル昆虫記の影響も大きかったとのことである。1925年のヤマトハキリバチの観察を皮切りに、ハチ類の習性観察にのめり込み、高校の過程で二度の落第をしている。高校卒業時にはすでに40種のハチの記録を取っていた(四つの新種を含む)[1]

その後も行く先々でハチを中心に様々な昆虫の観察を行い、いかなる時も観察を止めなかった。例えば敗戦後の食糧難の時期には食料として蓑虫(オオミノガ)の越冬幼虫を集めた際も、これにつく寄生バチを14種記録している。戦後日本に引き上げてきた後の1947年のころから、台湾や海南島のような熱帯の昆虫の多様性と比べて日本の昆虫の多様性が色あせて見えたこと、長年研究を続けてきた関西地方では既に大部分の狩りバチを調べ尽くしてしまっていたこと、またこのころから結婚をして安定した定職についたために自由気ままな野外研究に振り向けることのできる時間が乏しくなったこともあって、ヒメバチ類を中心に様々な昆虫の卵巣の比較解剖学的研究に主力を移し、卵サイズや蔵卵数を調査した。このような、狩バチの習性というある意味で派手な、そして野外研究の分野から地味で室内研究への転身は、しばしば意外性をもって語られる。このヒメバチ研究と初期の狩蜂研究の橋渡しとして、成虫による宿主である造網性のクモへの産卵前の一時麻酔と幼虫の外部寄生という狩蜂じみた生活史を示すクモヒメバチ類に注目したが、彼が観察できたのはゴミグモヒメバチとクサグモヒメバチの2種にとどまった。この分野は彼の没後21世紀になって大阪市立自然史博物館の松本吏樹郎らによって精力的な研究が開始された。

晩年の手記(岩田,1976)では、ヒメバチ研究に関して、卵巣の調査から彼らの産卵能力や生存期間について推察ができるようになったと言い、これを元に今後の展開について希望が述べられ、また巻末では今後の自然観察への意欲が語られる。


  1. ^ 『ハチの生活』(岩波書店 P.13)





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