今井兼平
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/23 18:49 UTC 版)
墓所・神社
北橘村、木祖村、長野市、川中島に「兼平塚」がある。また、滋賀県大津市にも墓所がある。
長野市川中島の奉斎神社、松本市今井鎮座の今井神社、群馬県渋川市北橘村箱田の木曾三社神社・木曾三柱神社で主祭神として祀られている。
系譜
- 父:中原兼遠
- 母:不詳
- 妻:不詳
- 長男:兼連
- 次男:兼之
- 三男:熊丸
子孫
- 北佐久郡立科町芦田、与惣塚 - 兼平の長男=兼連の墓
- 長野市御厨戸部、今井山讃楽寺 - 兼平の次男=兼之が創建
- 長野市鬼無里山角、山角城 - 兼平の三男=幼少名・熊丸が築城
- 文献によると、元暦元年(1184年)の粟津の戦いで木曾義仲と兼平が戦死すると、兼平の次男今井兼之・ 高梨氏・楯氏・根井氏・町田・小野沢・萩原・串渕・諸田等が義仲と巴御前の子である三男木曾義基を匿い、群馬県渋川市北橘村箱田に落ち延びたとされる。義仲の崇敬社である岡田神社、沙田神社、阿禮神社の分霊を勧請し木曾三社神社・木曾三柱神社を創建。箱田に住居を構えたことが始まりとされる[1][2]。のちに箱田城を自ら築城し箱田地衆(国衆)として活動するが、戦国時代に入り有力大名である白井長尾家、上杉氏、武田氏、北条氏、酒井氏、松平氏に仕えた[3][1]。
脚注
参考文献
- 今井善兵衛『更生農村:北橘村の実情』日本評論社、1935年。
- 今井善一郎『赤城の神』煥乎堂、1974年。
- 今井善一郎『習俗歳時記』煥乎堂、1975年。
- 児玉幸多、北島正元『藩史総覧』新人物往来社、1977年。
- 『別冊歴史読本24 江戸三百藩 藩主総覧 歴代藩主でたどる藩政史』 (新人物往来社、1977年)
- 山崎一『群馬県古城塁址の研究』(群馬県文化事業振興会、1971年-1972年)
関連項目
注釈
出典
今井兼平と同じ種類の言葉
固有名詞の分類
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