マルク・スレール
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/14 13:16 UTC 版)
マルク・スレール | |
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基本情報 | |
国籍 | スイス |
出身地 | 同・アリスドルフ |
生年月日 | 1951年9月18日(72歳) |
F1での経歴 | |
活動時期 | 1979-1986 |
所属チーム |
'79,'81 エンサイン '80 ATS '81 セオドール '82-'84,'86 アロウズ '85 ブラバム |
出走回数 | 88 (82スタート) |
優勝回数 | 0 |
表彰台(3位以内)回数 | 0 |
通算獲得ポイント | 17 |
ポールポジション | 0 |
ファステストラップ | 1 |
初戦 | 1979年イタリアGP |
最終戦 | 1986年ベルギーGP |
経歴
生い立ち
スイス北部、ドイツ国境に近いアリスドルフの農家に生まれる。子供の頃は家にあった父親のトラクターをいじるのが趣味だった。スピードへのあこがれはその頃からあり、スキーで足を骨折して病院で車椅子が与えられた時には、その車椅子で病院の前にあった坂を利用してのスピードトライアルを開催し怒られたりもしたという[1]。
19歳でカートを開始し、1975年にローカルイベントのフォーミュラ・Veeに参戦開始する。
フォーミュラ3
1976年にフォーミュラ3にデビューしドイツF3選手権2位、ヨーロッパF3選手権5位となり頭角を現す。1977年にBMWのジュニアチームに加入。DTMの前身である「Deutsche Rennsport Meisterschaft」に参戦し1勝、シリーズ5位となる。
フォーミュラ2
1977年はツーリングカーと並行してヨーロッパF2選手権にも参戦し、初ポイントを挙げランキング13位。1978年、BMWジュニアチームからヨーロッパF2に参戦し、未勝利ではあったがランキング2位を獲得。同年7月の鈴鹿ルビートロフィーレースに来日し出場、マーチ782/BMWを駆り星野一義との一騎打ちを制して優勝している。
1979年、ヨーロッパF2で2勝を挙げ、ブライアン・ヘントン、エディ・チーバーとの争いを制してシリーズ・チャンピオンを獲得する。
フォーミュラ1
1979年F2シーズンの終了後、エンサインよりF1の終盤戦イタリアグランプリに初めてエントリーしたが、予選を通過することはできなかった。次戦カナダグランプリでも予選通過に失敗したが、最終戦アメリカグランプリで初めて予選を通過し、決勝に出走した。
1980年はATSよりフル参戦を果たすことになった。しかしキャラミサーキットでの南アフリカグランプリでクラッシュし負傷し、3戦を欠場した。フロントサスペンションのトラブルが原因とされる[2]。
1981年はエンサインに移籍。ブラジルグランプリで4位(ファステストラップを記録)、モナコグランプリで6位に入賞し4ポイントを獲得した。シーズン途中でセオドールに移籍した。
1982年、アロウズに移籍。開幕前にキャラミで行われたテスト走行中に、リアサスペンションのトラブルによりクラッシュし負傷、序盤を欠場した[2]。第5戦ベルギーグランプリより復帰し、以後1984年まで3シーズンをアロウズで参戦した。
1985年はF1シートを確保できないままシーズン開幕を迎えたが、ブラバムのNo.2ドライバーであるフランソワ・エスノーが開幕から低調な戦績だったため[注釈 1]、第5戦カナダGPからスレールがその後任としてにエースのネルソン・ピケを補佐、第12戦イタリアGPでは自己最高位タイとなる4位に入るなどシーズン5ポイントを挙げ、ブラバムはスレール加入前にはノーポイントだったが、シーズン終了時にはコンストラクターズランキングで5位を確保した。
1986年、スレールはアロウズに復帰した。しかし、第5戦ベルギーGP終了後の6月1日、西ドイツで開催されたADACヘッセン400kmラリーにフォード・RS200で参戦し[3]、時速200kmでコントロールを失い立木に激突[4]。マシンは炎上し、コ・ドライバーは死亡[5]。スレールは命は助かったが手などにやけどを負い、全身に骨折があった[1]。特に腰骨の骨折はひどく、以後1年間車椅子での生活を余儀なくされた[6][2]。長期入院を経て退院し、9月のポルトガルGPのパドックに両手に包帯をした姿でかなりやせてしまっていたが、事故以来初めて姿を見せF1関係者を安心させた。パドック内でメディア取材に応じ、「まだレーサーを引退はしないけど、F1はもう引退だろうね」と話した。今後の予定としてBMWでサルーンカーレースに出場したい希望があり、スイステレビのレースコメンテイターとしてレースには関わっていくと思う、と話した[7]。
その後、復帰の可能性を探るべくBMWのツーリングカーで試走し[1]、結果は上々でありBMWから正式な復帰オファーも来たが、スレールはすぐに返事が出来なかった。
引退への葛藤
1年間の車椅子での療養となった期間に、スレールは「スイスの山々や、夕焼けの美しさを見たり、雲がこんなにきれいなのかと発見したり、今までこんなことも気づかなかったのかと思った」という[1]。生死の境をさまよったことで、今までモータースポーツ以外のことに目を向けていなかったことに初めて気が付き、「レーサーを辞めることにはかなり勇気が要った。でも走る意味も見つからなくなってしまった。勝つという事に闘争心を燃やすことが出来なくなったんだ。恐怖心は無かったんだけど。[1]」と述べ、レース復帰することなく引退を決断した。
引退後
現役引退後、スイスの「D.R.SスイスTV」でレース解説者となった。スイスでは子供向けのレーシングスクール開催や、スイス人の若いドライバーのための募金活動「スイス・マルク・スレール・ファンド」を開始。ドイツでレーシングスクールも主宰し、DTMでBMW系チームのチームマネージャーも務めた。事故から10年経った1995年時点でも身体の多くの部分に痛みが走ったり、十分に動かない関節があると言い、「その痛みの度に、つまり毎日事故のことは思い出すよ。でも生きることを楽しんでるし、レースとも関わっている。後悔は何も無いよ」と語っている[1]。
注釈
- ^ 1991年に取材を受けたネルソン・ピケが「チームメイトで最悪だったのはブラバムの時のフランソワ・エスノーだ。スピンだらけで最悪だった」と発言。F1グランプリ特集 Vol.15 1990年7月号 52頁 CBSソニー出版
出典
- ^ a b c d e f GP People マルク・スレール 生死の淵から蘇り知った生きることの本当の意味 F1グランプリ特集vol.75 95頁 ソニー・マガジンズ 1995年9月16日発行
- ^ a b c 「F1グランプリボーイズ」津川哲夫 三推社・講談社 1988年
- ^ スレールがRS200でラリーにも出場 Racing On No.003 33頁 1986年7月1日発行
- ^ ADAC Rallye Hessen 1986 EWRC Results.com
- ^ Marc Surer's RS200 Major Crash CarThrottle.com 2021年1月26日
- ^ 「Autocourse 1986-1987」Hamilton, Maurice (Editor) Hazleton Publishing, 1986, p120 ISBN 0-905138-44-9
- ^ SPOT NEWS フォードRS200でラリー中に事故を起こし、重態だったマルク・スレールが退院後初めてGPパドックに現れた Racing On No.008 1986年12月号 33頁下段 1986年12月1日発行
- ^ a b JAF(日本自動車連盟)ライセンスではない外国ライセンスドライバーはポイント対象外。
- 1 マルク・スレールとは
- 2 マルク・スレールの概要
- 3 プライベート
- 4 脚注
- マルク・スレールのページへのリンク