ペリリューの戦い 両軍の損害

ペリリューの戦い

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両軍の損害

日本軍(軍属を含む)

  • 戦死者 10,022名[1][110]~10,695名[111]
  • 戦傷者 446名(生存者を含む)[1][110]。生還できたのは、残存者34名と捕虜302名。捕虜の多くは朝鮮出身の軍属で、戦闘開始早々に米軍に投降した。実際の戦闘員で捕虜になったのは負傷などで体の自由がきかなかった14名のみ[112]

アメリカ軍

  • 戦病者 数千名。第81歩兵師団だけで2,500名以上、第1海兵師団も含めると5,000名以上いるという説がある[117]。1万人を超えるとする説もある[118]

ペリリュー島の島民

ペリリュー島には1943年6月末の段階で民間人1,060名(日本人160名、朝鮮人1名、現地住民899名)が平地の多い南部を中心に居住していたが、ミッドウェー海戦後の空母不足を島嶼基地航空部隊で補う方針が採られ、飛行場拡充・防備の強化に伴い防諜の観点から、1943年9月から1944年8月にかけて島民はパラオ本島とコロール島に疎開させられたので、戦闘による死傷者は出なかった[119]

現地住民の被害が少なかったことは、美談として毎日新聞のコラムなどで掲載されたといわれる(毎日新聞社から出版された舩坂弘の著作「サクラサクラ」1966年か)。

陣地構築にかり出された島民たちはすっかりと日本兵と意気投合し、中川は島民の代表から「一緒に戦わせて欲しい」との申し出を受けたが、中川は「貴様らと一緒にわれわれ帝国陸軍が戦えると思うか!」と拒否している。島民は、見せ掛けの友情だったのかと失意の中、ペリリュー島北部のガラコル波止場で疎開のために日本軍が準備した大発動艇に乗り込んだが、大発が島を離れた瞬間、その地区の日本兵全員が手を振って浜へ走り出てきた。中には軍帽を振ったり、陣地構築作業中に一緒に歌った即興の歌を合唱しながら見送る兵士たちもいた。その様子をみた島民たちは、日本軍に抱いた不信感は誤解であり、信頼に足る日本軍人たちであったと理解したという[120]

戦後、疎開させられた島民の一部は、南部が廃墟となったため北部に帰ってきて定住したが、戻れなかった島民と子孫1,600名が、土地所有権の絡みでペリリュー出身であると主張している。

当時の日本による教育を受けていた島民は現在でも日本語を話すことができ、また単語単位であれば若者にも日本語が通じる場合がある。

日本からの援助で購入されたコロールとの連絡船は、「YAMATO」と命名されている。また、ペリリューに桜は咲かないが、日本をイメージする「サクラ」という言葉には人気があり、スポーツチームの名前等にも使用されている[121]

伝承など

ペリリューのジャンヌ・ダルク伝説

「ペリリュー島の激戦場で、若い日本女性がアメリカ軍海兵隊に機関銃を乱射して86名を殺傷したのちに玉砕した」という伝承がペリリュー島で語り継がれているとされる。それを最初に日本で紹介したのは戦記作家の児島襄とされ、「最後の1兵は女性だった、と語り伝えられるペリリュー島日本守備隊の奮戦記」という戦記文で、その場に居合わせたアメリカ軍海兵隊員スキー軍曹から目撃談を聞いたバート・尾形という日系人の「彼女は丘の上に孤立し、三方から海兵隊に包囲された。そのとき、彼女は機関銃を乱射した。その機銃座の抵抗は激しく、海兵隊の死傷は86人をかぞえた。スキー軍曹も攻撃隊に加わっていたが、あまりにも激しい射撃に斜面にへばりついた」「ついに決死隊が募集され、戦車の援護射撃で相手の注意をひいている間に、背後に迂回しやっと射殺した。勇敢な日本兵に敬意を表すべく近づくと、破れた軍服からのぞく肌の白さに女性とわかり、深い感銘を受けた」という証言を紹介している[122]。その後にこの女性は「ペリリューのジャンヌ・ダルク」とも呼ばれ、書籍が出版されたり[123]、伝承に基づいたテレビドラマ『命ある限り戦え、そして生き抜くんだ』が放映されたりした[124]

児島の調査により、この伝承のモデルとなった女性はコロール島で開業していた一流料亭「鶴の屋」の芸者「久松」と判明している。「久松」は独立歩兵第346大隊長引野通廣少佐と恋仲になったが、アメリカ軍の侵攻が迫り、日本人居留民は日本内地への引揚が命じられると、「久松」は引野と「一緒に死にたい」と言い張って内地への引揚を拒否している。やがて引野は独立歩兵第346大隊を連れてペリリュー島に派遣されることとなったが、「久松」は引野と一緒に行くと引かず、結局引野は「久松」を当番兵として連れていくことにしたという。「久松」は女性とわからないように髪を切り、男物の軍服を着たが、その様子を同じ独立歩兵第346大隊ながらコロール島に残ることとなった中尾清元曹長が見ており、児島に「戦闘帽の下の美しい黒目をうるませて別れを告げた久松の姿が今も目に焼き付いている」と話している[125]

歴史家秦郁彦もこの伝承について調査をしており、ペリリュー島についての著作もある元日本陸軍軍人舩坂弘が取材の過程で、第2海上遊撃隊小隊長の高垣少尉らがペリリュー島のガルコル波止場で上陸しようとしていた「久松」を見つけ、引野と「久松」の関係を知っていた高垣らは事情を察しつつも、「久松」の身を案じて見過ごすことはできないと、すぐにコロール島に引き返すように説得したが、そこに現れた引野が高垣を殴って「久松」を上陸させたという話を、その場に居合わせた高垣の部下将兵から聞いたと著書で記述している[126]。また、秦はコロール島にも赴き、地元のガイドで日系人のイチカワ・タダシからも「久松」に関する証言を得ている。その証言によると「「久松」の出身は不明であるが、「久松」は源氏名で本名は梅野セツであり、色白で丸顔の長髪で身長が5尺(151cm)ぐらい」「父親ぐらいの将校(引野と久松の年齢差は30歳ぐらい)に身請けされ、その将校を追ってペリリュー島に渡ったという噂を聞いたが、久松の性格なら不思議はないと思った」「身の回りのものを同輩に分け、理髪店で髪を切り、誰かにゲートルの巻き方を習い、地下足袋を履いて出陣した」「彼女は機関銃でアメリカ兵を撃ちまくり、重症のまま病院に運ばれて2週間後に死んだとペリリュー島の住人から聞いた」ということであった[127]

また歩兵第二連隊所属 森島一等兵は、将校専属の慰安婦一名が最後まで島に残り、軍服を着用して釣りをする姿を目撃している。同連隊生還者の飯島上等兵も、米軍がたてた十字架墓を島北端の電信所付近(日本軍呼称水戸山)で目撃している。投降後、飯島が米兵に聞くと、手榴弾を投擲して米軍を足止めした日本軍女性兵士の墓という回答があった[128]。ペリリュー島で最後まで生き残った山口以下34名の将兵のなかにも、軍服姿の女性が海岸で釣りをしているのを目撃した者もおり、戦後に捕虜になったときにアメリカ兵から「北地区で最後まで戦って死んだ女兵士がいたそう」という噂を聞かされて思い当たるふしがあったという[129]

しかし、どの証言にしても伝承の域は超えず、秦はアメリカ海兵隊やその戦友会にも取材したが成果はなく、また、引野と戦死数日前まで行動を共にしながら、引野から、大隊の功績名簿を持ってコロールの司令部に戦況を報告するよう命令されて生還した大隊本部人事係宮本茂夫軍曹の遺稿にも、当番兵として引野に寄り添っていたはずの「久松」に関する話は一切出てこない。引野は「私は祖国のためにペリリューを守り抜いて死ぬ」と断言しており、部下将兵からの信頼も厚く、秦は引野が女連れであれば、ここまで部下将兵に信頼されていなかったのではとの思いを抱いている[130]。引野は宮本をコロールに出発させたあと、1944年9月28日頃に籠っていた水戸山の陣地から出撃して南西中央高地奪還を試みて突撃したが、アメリカ軍の砲火で負傷し、その後に自決したと推測されている[72]。結局「久松」がペリリュー島に渡って戦って戦死したという確証は得られなかったが、「久松」こと梅野セツとコロールで親交があった従軍看護婦が2008年時点で健在ということが判明し、秦はその看護婦から「久松」の写真を入手し、実在については確認している[131]

これら女性兵士に関する諸証言の基となった可能性のある3つのエピソードが存在する。

  • ペリリューの戦いが始まる2ヶ月前のサイパンの戦いをレポートした前節上掲ロバート・シャーロッド著「サイパン」1951年邦訳出版(訳者中野五郎)p307に、サイパンの在留邦人女性がアメリカ軍部隊に向け小銃を乱射し、最後に足を撃ち抜かれ野戦病院に収容された話が掲載されている。
  • 同じくサイパンの戦いで自決を試み重傷を負うもアメリカ軍に救助された従軍看護婦の菅野静子(菅野は戦闘に参加していないが鉄帽を被っていたため女兵士と誤認された)が“サイパンのジャンヌ・ダルク”と1944年7月25日付ニューヨーク・ヘラルド・トリビューンで報道されたことが週刊新潮昭和34年8月24日号に掲載されているそうである(出典1959年菅野著「サイパン島の最期」編集後記)
  • エニウェトクの戦い椰子の樹上からアメリカ兵を狙撃した日本軍の女性兵士がいた。その女性兵士は捕虜となって空母フランクリンに乗せられてハワイの捕虜収容所に運ばれたとニューヨーク・タイムズに報道されている[132]

ペ島の桜を讃える歌

名越二荒之助によれば、パラオ共和国が誕生した時、同島出身の人らによってペリリュー島における日本軍の勇戦を讃える「ペ島の桜を讃える歌」(作詞:同島出身のジョージ・シゲオとオキヤマ・トヨミ 作曲:同島小学校副校長ウィンティ)がつくられ、今に歌い継がれている[133]

名越の記述は舩坂弘著『血風ペリリュー島』(1981年、叢文社)から引用されたものとされるが、舩坂本では「作詞:沖山トヨミ・庄子シゲオ 作曲:同島小学校副校長ウィンティ 監修:舩坂恵子・蜂巣一郎 指導:舩坂弘」と記述され、日本人による「監修」・「指導」があったことが明らかにされているが名越の本では省略されている。なお、舩坂弘の『血風ペリリュー島』は2000年に「ペリリュー島玉砕戦」と改題され出版されたが、ペリリュー島の桜を讃える歌についての記述は削除されている。

「ペ島の桜を讃える歌」は後述のサンケイ新聞社の住田良能記者による1978年のペリリュー島取材時に記録された「緑の島の墓」(作詞:小学校副校長ウィンティー・トンミ 作曲:妻のアントニア)と曲(メロディー)が同じである[要出典]。このことから1981年の舩坂本に書かれた「ペ島の桜を讃える歌」は1978年以前に作られていた「緑の島の墓」の曲を使いまわし、作詞は舩坂によってなされたともいわれる[誰?]

日本会議事業センターが2005年に製作したDVD『天翔る青春ー日本を愛した勇士たち』[134]には、パラオの人々が「ペ島の桜を讃える歌」を歌う映像[135]が収録されている。


ニミッツ提督作の詩文

名越二荒之助による紹介

“ニミッツ提督の作”と名越二荒之助が提示した詩文

1982年に建築されたペリリュー神社内に1994年に建立された石碑には、ステールメイトII作戦の指揮官であったチェスター・ニミッツの詩文とされる文字列が彫り込まれている。

「諸国から訪れる旅人たちよ この島を守るために日本国人がいかに勇敢な愛国心をもって戦い そして玉砕したかを伝えられよ 米太平洋艦隊司令長官 C.W.ニミッツ」
"Tourists from every country who visit this island should be told how courageous and patriotic were the Japanese soldiers who all died defending this island. Pacific Fleet Command Chief(USA) C.W.Nimitz"

名越二荒之助の著作[136]で有名になったこの日本語で書かれた詩文は、名越によれば、ペリリュー神社境内の掲示板に書き込まれていたものを名越が見つけたとしている。

右の掲示板には、戦闘の経過が要約され、米国公刊戦史に載っているとして、次の詩的な一文で結ばれています。「この島を訪れる旅人たちよ。あなたが日本の国を通過することあらば伝えてほしい。此の島を死んで守った日本軍守備隊の勇気と祖国を憶うその心根を・・・・・・

— 1987年『世界に生きる日本の心』230頁

名越はこの詩文のオリジナルである英文を探そうと他の人に頼み、ついに浦茂(元陸軍中佐。宮城事件ではクーデター計画作成に関与・戦後航空幕僚長・退職後ロッキード社の代理店の丸紅顧問)が1984年に渡米し、ニミッツの資料を求めてアナポリス海軍兵学校を訪れた時、教官からニミッツの詩として伝えられたものとして、英文を提示した。

浦氏が昭和五十九年に渡米し、ニミッツの資料を求めて、アナポリス海軍兵学校を訪れました。その時、教官から教えられた英文は、次のようなものでした。「Tourists from every country who visit this island should be told how courageous and patriotic were the Japanese soldiers who all died defending this island. 」

— 1987年『世界に生きる日本の心』231頁

舩坂弘の著書との比較

名越は『世界に生きる日本の心』本文で言及していないが、掲載された写真には詩文の後に出典として舩坂弘著『血風ペリリュー島』と記され、当該詩文は米軍公刊戦史に記された詩文としか紹介されていない。

米国公刊戦史には「この島を訪ねる、もろもろの国の旅人たちよ、あなたが日本を通過することあらば伝えてほしい。此の島を死んで守った日本軍守備隊の勇気と祖国を憶うその心根を・・・・」とある 船坂 弘著「血風ペリリュー島」より”

— 1987年『世界に生きる日本の心』231頁、写真1982年当該部分

船坂弘『血風ペリリュー島』(1981年)で該当する部分は、サンケイ新聞記者の住田良能記者が1978年にサンケイ新聞の茨城県版で企画連載した「ペリリュー島78」を収録した部分に記載されている。

“犠牲の大きい戦いだっただけに、米軍にとって、勝利はひときわ印象深かった。戦後太平洋方面最高司令官だったニミッツ提督は「制空、制海権を手中にした米軍が、一万余の死傷者を出してペリリューを占領したことは、いまもって大きなナゾである」と述べ、また米軍公刊戦史は「旅人よ、日本の国を過ぐることあれば伝えよかし、ペリリュー島日本守備隊は、祖国のために全員忠実に戦死せりと」と讃えた。”

— 1981年「血風ペリリュー島」P258における1978年住田記者の記事

「血風ペリリュー島」における住田良能記者の記事では出典は明記されていないが、それとほぼ同じ文章が、舩坂弘が監修し自身が経営する出版社から出した「栄光の軍旗あゝ我が水戸の二聯隊」(1972年大盛堂書店)に存在する。

“ペリリュー島攻撃は、米国の歴史に於ける他の如何なる上陸作戦にも見られない、最高の損害比率(約四〇パーセント)を出した。

既に制空、制海権を手中に納めていた米軍が死傷者併せて一万余人を数える犠牲者を出して、ペリリュー島を占領したことは、今もって大きな疑問である。━元太平洋方面最高指揮官C・Wニミッツ著『太平洋海戦史』より

○一行空白○

旅人よ、日本の国を過ぐることあらば伝えよかし、ペリリュー島日本守備隊は、祖国日本のために全員忠実に戦死せりと。(米軍公刊戦史より)”

— 1972年栄光の軍あゝ我が水戸の二聯隊P271-272

シャーロッド記者の目撃証言・著作

米軍公刊戦史にこのようなペリリューの日本兵を讃える詩文の記述は見当たらないが、元となったであろう文献が存在する。ペリリュー島の戦いが始まる一ヶ月前に、アメリカの従軍記者として有名なロバート・シャーロッドサイパンの戦いをレポートした「THE NATURE OF THE ENEMY」(週刊誌タイム1944年8月7日号)で、追い詰められた3人の在留邦人女性が入水自殺する前に悠然と長い黒髪を櫛ですいていた情景を目撃した海兵隊員の証言を聞き、古代ギリシアのテルモピレーの戦いを想起したとする記事を書いている。[1]

In one instance marines watched in astonishment as three women sat on the rocks leisurely, deliberately combing their long black hair. ※Finally they joined hands and walked slowly out into the sea.

  • ※The marines had obviously never heard that Leonidas and his Spartans did the same before their last stand at Thermopylae.
— タイム1944年8月7日号

この「THE NATURE OF THE ENEMY」におけるサイパン島日本人民間人の壮絶な最後の様子は、交戦相手国のメディアであるにもかかわらず逆利用され戦意高揚のため日本の新聞各紙(朝日、毎日、読売報知)において引用されたが、朝日新聞1944年8月19日のストックホルム渡辺特派員の記事ではギリシアの故事に疎い日本の読者のために以下のように説明されている。

こゝに引用されたテルモピレーの戦ひとは紀元前四八〇年三百のスパルタ兵がレオニダス王の下に数百倍するペルシャ軍を迎へて全員華と散つた戦さのことである。その戦跡にいまなほ残る碑文には 「旅人よ、行きてラケダイモン(スパルタ人)に告げよ、彼等の命に従い我等のこゝに眠るを」

— 朝日新聞1944年8月19日付

サイパンの戦いで自殺直前に髪を櫛けずる日本人女性達の情景を見たとする海兵隊員の証言からシャーロッドが想起したテルモピレーの同じような事例とは、ヘロドトス「歴史」において描写されているペルシャ軍の斥候がスパルタ軍の陣地を偵察した際、スパルタ兵達が頭髪に櫛を当てていた情景である[137]

またシャーロッドは1945年に自身が従軍した戦闘のレポート「On to Westward: The WAR IN THE CENTRAL PACIFIC」を出版。この本のサイパン部分が中野五郎訳で1951年日本でも出版された。タイムに掲載された部分は以下のように記されている

Some of the Jap civilians went through considerable ceremony before snuffing out their lives. In one instance Marines watched in astonishment as three women sat on the rocks leisurely, deliberately combing their long, black hair-much after the fashion of Leonidas and his Spartans before their last stand at Thermopylae. Finally,the women joined hands and walked slowly out into the sea.

— 1945年「On to Westward」ロバートシャーロッド著p146

また日本人の在留邦人の一部には、みずからその生命を絶つまえに相当の儀礼をとりおこなうものがあつた。その一例として、三名の日本人の女性が、まるでテルモピレーの決死の陣にのぞんだレオニダス将軍と部下のスパルタ軍勢の流儀に大いに似て、岩頭にゆうゆうと坐つてその長い黒髪を落ちついて櫛けずりつつあつた光景には、さすがの海兵たちも呆然と驚異の目を見はつて見まもるばかりであつた。それから最後に、これらの女性はそれぞれ両手を合わせて祈りながら、しずしずと海のなかへ歩いていつて姿を消したのである。

— 1951年「サイパン」ロバートシャーロッド著中野五郎訳p302

「太平洋の防波堤」

シャーロッド「On to Westward」は主にサイパンと硫黄島の戦いを扱っているが、ペリリューの戦いに言及した以下のような記述が存在する[138]

During the day Marines saw most of the suicides at Marpi Point, there were loudspeakers set up on the cliff. The surrendered civilians pleaded with the others to give themselves up, assuring them that they would be well treated. But that did not stop the suicides.Among many Japanese there seemed to be apressing compulsion to die, regardless of everything. The attitude of these civilians seemed comparable to that of Jap soldiers on Peleliu who lettered a sign before they died:

“We will build a barrier across the Pacific with our bodies.”

<和訳> 海兵隊はマルピ岬で在留邦人婦女子の投身自殺の大半を見かけた当日の一日中の間にも、その断崖の上にはラジオの拡声器がいくつも据えつけられていた。そしてすでに投降した在留邦人たちは、他の同胞に向かつてよく待遇されるむねを説得しながら、投降するように大いにすすめたのであつた。しかし、それでも日本人の自決をとどめることはできなかつた。多数の日本人の間には、あらゆることにもかかわりなく、死のうとする強烈な推進力があるように思われた。これらのサイパン島の在留邦人の態度は、総員自決するまえに次のような文字を書き残して玉砕したペリリュー島(内南洋のパラオ諸島の主島)の日本軍将兵の態度とよく似ているように見えた。

「われわれは、わが屍をもつて太平洋の防砦を築かん!」

— 1951年「サイパン」ロバートシャーロッド著中野五郎訳p306

シャーロッドの著作に記されているペリリュー日本守備隊の兵士達が死ぬ前に書き残した「We will build a barrier across the Pacific with our bodies」の原文(日本文)は不明だが、サイパンの戦いで歩兵第136連隊長として指揮を取った小川雪松大佐が1944年5月9日に日本を出発する出陣式の挨拶で似たような言葉「身をもって太平洋の防波堤たらん」を訓示している。また同じくサイパンで自決したサイパン防衛の最高指揮官である中部太平洋方面艦隊司令長官南雲忠一中将も7月3日玉砕直前最後の訓示で「太平洋の防波堤となりてサイパン島に骨を埋めんとす」と述べている。

この「太平洋の防波堤」という言い方は1944年2月マリアナ・パラオ方面の防衛を管轄する第31軍司令官に親補された小畑英良中将がサイパン赴任前に昭和天皇に謁見した時に誓った言葉「われ身をもって太平洋の防波堤となり、陛下と国民の期待に答えんことを期す」に由来する。小畑はサイパン赴任後の1944年5月28日〜30日にはペリリューの守備部隊を視察、6月のサイパン戦時はグアム島から指揮を取り8月のグアムの戦いで玉砕戦死しているがそのとき自身も8月10日に「己れ身を以て、太平洋の防波堤たらん」との決別の電報を打っている。


なお名越は、前掲書においてペリリューの戦いを記述する前に、ミャンマー・中国大陸や太平洋の島々の玉砕戦に比肩するものとして古代ギリシア時代のテルモピュライの戦いを例示している。

このテルモピュライの戦いを題材にシモニデスにより有名な詩が賦され、現地に石碑も建てられている。多くの欧米の文人が独自に翻訳行っている。

"Oh stranger, tell the Lacedaemonians that we lie here, obedient to their words." 
「旅人よ、行きて伝えよ、ラケダイモン(スパルタ)の人々に。我等かのことばに従いてここに伏すと」。 From the 1962 film The 300 Spartans

Battle of Thermopylae 英語版に掲載されている英語圏文人の訳詩では、strangerがほとんどでTouristsは皆無である。


注釈

  1. ^ stalemateは「膠着」の意味。チェス用語ではステイルメイトとも表記される。
  2. ^ 「スミスVSスミス」に関しては、海兵隊を見下している陸軍から「(海兵隊指揮官は、陸軍将官のように大部隊を指揮する訓練を受けておらず、その能力もないのに、)海兵隊の中将に陸軍の少将を解任する資格があるのか」と大いに憤懣の声が上がり、ホーランド・スミス配下で戦死した海兵隊員の一部の遺族からの海兵隊司令官としての資質を問う非難に呼応して、これに同調する議員達によって議会に持ち込まれて政治問題化し戦後まで尾を引くこととなった。

出典

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