トンプソン (バンド) 歴史

トンプソン (バンド)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/01/13 04:39 UTC 版)

歴史

1991年クロアチア紛争の初期のころ、マルコ・ペルコヴィッチは「Bojna Čavoglave」(チャヴォグラヴェ大隊)で初めて脚光を浴びることになった。ペルコヴィッチは「トンプソン」の名義でこの曲を披露した。曲は「Za dom - Spremni!」という言葉から始まり、これは第二次世界大戦のときのウスタシャのスローガンであった(ジークハイルも参照)。ここから、この曲はもっぱら、セルビア人武装勢力からチャヴォグラヴェを防衛するクロアチア陸軍への呼びかけとなっている。この曲はクロアチア軍の士気を高めたとみられ、また同時に大変な人気を呼んだ。この曲はクロアチアの戦争音楽のコンピレーション「Rock za Hrvatsku」(クロアチアのためのロック)に登場した。

1992年、トンプソンは初のアルバムである『Moli mala』を発表した。ペルコヴィッチはこのときクロアチア軍を離れたものの、1995年には嵐作戦に参加するために短期の間、軍役に戻っている[10]。その後、1990年代の間、時がたつにつれてペルコヴィッチはキャリア初期の人気を失い、低迷を続けた。彼は「Zmija me za srce ugrizla」(ヘビがオレのハートを噛んだ)、「Grkinjo, znaj, svemu je kraj 」(ギリシャ女よ、我々は完遂したと知れ)など、いくらかの小規模なヒットはあったものの、1998年のヒット「Prijatelji」程度の人気を繰り返すにとどまった[11]

2000年のクロアチア議会選挙によって、左派政権(クロアチア社会民主党と、クロアチア独立を牽引した指導者のイヴィツァ・ラチャンが率いる)が誕生すると、クロアチアの民族主義者の強い怒りを買い、トンプソンは再び人気を集めるようになった。マルコ・ペルコヴィッチはコンサートのなかで、当時の首相であったイヴィツァ・ラチャンならびに当時の大統領であったスティペ・メシッチを侮辱した[11]

多くのトンプソンの楽曲(「Bojna Čavoglave」、「Lijepa Li Si」、「Vjetre s Dinare」など)がクロアチアで大ヒットとなり、サッカーの試合やそのほかの大イベントの場で流されるようになった。トンプソンはクロアチアの音楽フェスティバルMelodije Mostaraで2001年に、Croatian Radio Festivalで2006年に優勝したのをはじめ、クロアチアの「勝利と祖国への感謝の日」には毎年コンサートを開いている。

トンプソンは、多くのセルビア人やユダヤ人などがヤセノヴァツ強制収容所en)で殺害されたファシズム時代のクロアチア(クロアチア独立国を参照)を示唆した曲「Jasenovac i Gradiška Stara」を歌ったと報じられている。この曲は今日のクロアチアにおける強烈な反セルビア主義、そして狂信的なクロアチア愛国主義を代表した曲と見られている。

E, Moj Narode ツアー

2002年に『E, Moj Narode』をリリースして以降、トンプソンはアルバムの販促のためのツアーを行った。ツアーの絶頂となったのはスプリトのポリュド競技場(en)で行われた「壮大な」[12] ものであった。コンサートには4万人の観衆が集まった。「Lijepa li si」を披露するときには、ミロスラヴ・シュコロ、アラン・ヴィタソヴィッチ、マテ・ブリッチ、ジュリアーノ、ムラデン・グルドヴィッチが共にステージに上がった。コンサートではペルコヴィッチは再び、彼の曲が3つの愛(神、祖国、そして家族)を標榜していることを繰り返した[12]

コンサートは同時に、多くの論争を巻き起こした。客席の2つは旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷に訴追され、当時裁判中だったミルコ・ノラツ(Mirko Norac)、および当時逃亡中であったアンテ・ゴトヴィナのために用意されていた。コンサートの冒頭では、ペルコヴィッチがステージに上がるまでの間、観客は第二次世界大戦当時のクロアチアのファシストであるウスタシャの曲「Evo zore, evo dana」(en)を歌った[11][12]

2003年には、トンプソンはベスト盤『Sve najbolje』を発表。2004年にはバンドのヴォーカル兼ベースのティホ・オルリッチがソロ・アルバム『Tiho』を発表した。このアルバムにはトンプソンの曲を2曲収録し、またマルコ・ペルコヴィッチとも共演している。

このツアーは2005年にも散発的に行われた。国際的には、シドニーのシドニー・エンターテイメント・センター(Entertainment Centre)、メルボルンのヴォーダフォン・アリーナ(Vodafone Arena)で5月に行われた[13]。ツアーの終わりには、アルバムの売上げは6万枚を超え、クロアチアでゴールド・レコードとなった[14]

2006年の6月にマルコ・ペルコヴィッチは、難病を抱える子どもたちと家族を支えるためにマクシミル(Maksimir)で行われた有名人によるサッカーの試合に加わった[15]

Bilo jednom u Hrvatskoj ツアー

マルコ・ペルコヴィッチ。「Križ nek' ti sačuva ime」コンサートにて。

アルバム『Bilo jednom u Hrvatskoj』は2006年12月にリリースされた。年末のリリースであったにも関わらず、このアルバムはクロアチアにおいてこの年で2番目に多く売れたアルバムとなった[16]。その直後にトンプソンは、四旬節から夏にかけてクロアチアおよび欧州の諸都市でのツアーを実施し、その絶頂をザグレブマクシミル競技場で締めくくると発表した。ツアーはボロヴォ・ナセリェ(en:Borovo Naselje)近くのヴコヴァルから始まり、およそ4000人のファンがトンプソンのパフォーマンスをみに集まった[9]

ツアーはジャコヴォĐakovo)へと続き、その後のフランクフルトではBallsporthalleでおよそ1万5千人の観衆を前にパフォーマンスを行った。近くのホールではボブ・ディランのコンサートに2千人が集まっていた。トンプソンが1万5千人を集めていると知ったボブ・ディランは、そのコンサートへ連れて行って欲しいと頼み、トンプソンの音楽を気に入ったという[17]。6月には、アルバムの売上げは10万枚を超え、クロアチアでは驚異的な枚数となった[18]

最初のクロアチアでのツアーはザグレブのマクシミル競技場で行われた最大のコンサートで幕を閉じた。トンプソンは6万人の観衆を前にパフォーマンスを行った。コンサートはクロアチアの公共放送で中継された。次のツアーではスプリトのスタリ・プラツ(Stari plac)で2万5千人を前にパフォーマンスを行った。ショーはライブCD用に録音された[19]

クロアチアの2007年の沿岸火災(Kornati firefighter tragedy of the summer of 2007)以降、トンプソンはそれを記念した曲「Ovo nije kraj」(これは終わりではない)を製作したり、ポリュドで開かれたチャリティ・サッカーに参加したりしている[20]

トンプソンは2007年11月にはニューヨークで2つのコンサートを行い、ユダヤ人団体からの抗議を呼んだ[21]。これらのロビー団体はニューヨークの大主教区に対してショーを中止させるように求めたが、トンプソンがナチズムを宣伝している証拠はないとして求めには応じなかった[22]。実際にコンサートのひとつに参加したワシントン・ポストの記者も、ネオナチとの関連の証拠はないと確信した[23]。トンプソンのトロントで行われたコンサートは、会場として予定されていた収容人数2千人のKool Hausをキャンセルし、新たに会場となった同地のクロアチア人センターに5千人の観衆を集めた[24]。そのほかのツアーは予定通りに行われた。

トンプソンは2007年の11月にクロアチアに帰国し、その後ボスニア・ヘルツェゴビナのトミスラヴグラード、ノヴィ・トラヴニク、シロキ・ブリイェグチャプリナへとコンサートを続けた[19]。トンプソンがオーストラリアに赴く前、クロアチアで最後のコンサートは、ドラジェン・ペトロヴィッチ・バスケットボール・ホール(Dražen Petrović)で開かれるKKツィボナKK Cibona)の定例のクリスマス・チャリティ・ショーで、利益はザグレブ大聖堂に寄贈される[25]。オーストラリアでのツアーにはメルボルンのフェスティバル・ホール(Festival Hall)、大晦日のシドニーでのシドニー統一スポーツ・センター(Sydney United Sports Centre)、およびアデレードパースなどがあった。オーストラリアの反中傷委員会B'nai B'rithは、トンプソンのオーストラリア入国ビザ取得を阻止しようとロビー活動を行ったが、政府はトンプソンはオーストラリアの法に抵触しないとしてこれを退けた[26]。クロアチアでの幾らかのゲスト出演の後、ラッパーのショーティ(Shorty)は、延べ2万2千人を動員するトンプソンのオーストラリア・ツアーに加わることを表明した[27][28]


  1. ^ Exclusive interview before the sought-after release of "Bilo jednom u Hrvatskoj"
  2. ^ Celebrations in Čavoglave at Večernji.hr
  3. ^ More than 50,000 in Čavoglave at Večernji.hr
  4. ^ Croatian World Games
  5. ^ HSP anthem
  6. ^ Ljuta guja
  7. ^ Reci, brate moj
  8. ^ a b An article on Thompson on index.hr
  9. ^ a b c d Perković's interview for Index.hr before the concert in Vukovar at Index.hr
  10. ^ Marko Perković (1966 - )
  11. ^ a b c Boris Dežulović article on Thompson
  12. ^ a b c Article about 2002 Poljud concert in Vjesnik Archived 2013年1月2日, at the UK Government Web Archive
  13. ^ 2005 Australian Concert Archived 2014年1月26日, at the Wayback Machine.
  14. ^ Promotion for Thompson's Concert in Germany
  15. ^ Derbi
  16. ^ Most played song 'Srce nije kamen', Gibonni's album the highest sold
  17. ^ Thompson article at Slobodna Dalmacija
  18. ^ Marko Perković Thompson: I am an ordinary father and husband
  19. ^ a b c Thompson's first live CD on sale with Večernji Archived 2008年1月6日, at the Wayback Machine.
  20. ^ With big hearts, 30 thousand at Poljud for dead firefighters
  21. ^ “Neo-Nazi Band Set To Play Amid Protests”. New York Sun. (2007年10月24日). http://www.nysun.com/article/65117 2007年10月17日閲覧。 
  22. ^ N.Y. Archdiocese sees no Nazi evidence in Croat rock band
  23. ^ Rocking The Boat
  24. ^ Thompson lights up Toronto at "forbidden concert"
  25. ^ 19th Christmas in Cibona
  26. ^ Jewish outrage at 'anti-Semitic' singer
  27. ^ Exclusive Interview: Marko Perkovic Thompson in Australia!
  28. ^ Thompson in Australia: More than 22,000 people at four concerts
  29. ^ Šimunić: Why didn't they allow Thompson
  30. ^ a b Thompson kicked out of Maksimir at Slobodna Dalmacija
  31. ^ Bilić gives interview for journalist who wrote that Šimunić was an idiot
  32. ^ A trip to remember
  33. ^ BiH Army's morale raised by Čavoglave
  34. ^ a b Wiesenthal Center Expresses Outrage At Massive Outburst of Nostalgia for Croatian fascism at Zagreb Rock Concert; Urges President Mesic to Take Immediate Action by Simon Wiesenthal Center
  35. ^ Episode of TV show Latinica about Thompson
  36. ^ Je li pjevač Thompson opasniji od marihuane (クロアチア語)
  37. ^ Vijesti.net - Zbog australske turneje Thompson će morati na savjetovanje o toleranciji?
  38. ^ Thompson interview in Večernji list
  39. ^ Tromblon





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