トニー・アレン (ミュージシャン)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/10/26 09:20 UTC 版)
アフロビートの創始者、フェラ・クティの右腕として活動し、彼の元を離れてからも精力的に活動していた。
来歴
1940年にナイジェリアのラゴスで、ナイジェリア人とガーナ人の元に生まれる。
アート・ブレイキーやマックス・ローチ等のジャズ・ドラマーに影響され、ドラムを演奏するようになる。1964年にフェラ・クティのバンドのオーディションに受かり、彼とともに活動するようになる。1965年にはクーラ・ロビトスを結成し、ハイライフとジャズが混ざり合った音楽を演奏していた。当初は複雑な音楽をやっていたが、聴衆には理解されず、アメリカのツアーを通じ、アメリカのファンクの影響を受けた、踊りやすいシンプルなものに変わっていった。
アメリカに滞在中、ブラック・パンサー[要曖昧さ回避]のメンバーである、黒人女性のサンドラ・イジドールから政治活動の影響を受け、これが音楽に結びつくようになる。
ラゴスに戻るとクティはアフリカ70を結成する。このバンドのアルバムにアレンは全て参加。在籍中、クティのプロデュースでJealousy(1975), Progress(1976), No Accommodition for Lagos(1978)を制作した。1980年代になるとクティの元を離れ、『トニー・アレン・アンド・アフロ・メッセンジャーズ』を結成し、No Discriminationを制作。1984年にイギリスに1年半滞在し、その後はフランスのパリに移り住む。
1990年代は主にセッション・ミュージシャンとして活動。アルバムもコンスタントに発表し続けている。2007年にはブラーのデーモン・アルバーンやザ・クラッシュのポール・シムノンらと共に『ザ・グッド,ザ・バッド・アンド・ザ・クイーン』(The Good, the Bad and the Queen)を結成してアルバムをリリースした。2012年にはデーモン・アルバーン、レッド・ホット・チリ・ペッパーズのフリーとRocketjuice and The Moon (ロケットジュース・アンド・ザ・ムーン) 結成してアルバムをリリース。
2020年4月30日、パリのポンピドゥー病院で死去[1]。79歳没。
ディスコグラフィー
- Jealousy (1975年)
- Progress (1977年)
- No Accommodition for Lagos (1979年)
- No Discrimination and the Afro Messenger(1979年)
- N.E.P.A. (1985年)
- Too Many Prisonerswith Zebra Crossing (1987年)
- Afrobeat Express (1989年)
- Ariya (1998年)
- Black Voices (1999年)
- Ariya (remixes) (1999年)
- Black Voices Alternate take Featuring Mike "clip" Payne (2000年)
- Black Voices Remixed (2000年)
- Home Cooking (2002年)
- Every Season (2002年)
- Eager Hands & Restless Feet (2002年)
- Tony Allen Live (2004年)
- Lagos no Shaking (2006年)
- Secret Agent (2009年)
- Inspiration Information with Jimi Tenor (2009年)
- Film Of Life (2014年)
- ^ “アフロ・ビートを創造した伝説的ドラマー、トニー・アレンが死去”. amass. (2020年5月1日) 2020年5月1日閲覧。
- 1 トニー・アレン (ミュージシャン)とは
- 2 トニー・アレン (ミュージシャン)の概要
- 3 外部リンク
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