デンマークの植民地
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/04/07 17:37 UTC 版)
概要
カルマル同盟以降同君連合体制をとってきたデンマーク人とノルウェー人は、オルデンブルク朝の元で「父なる国」 (Statsfædrelandet)から海外へと進出した。
17世紀、スカンディナヴィア半島内での領土縮小を余儀なくされたデンマーク=ノルウェーは、西アフリカやカリブ地域、インド亜大陸での要塞、港、貿易拠点の建設に力を入れるようになった。重商主義がヨーロッパを席巻する中、クリスチャン4世は海外貿易を重視する政策の先鞭をつけた。1620年、Ove Gjedde提督率いる遠征隊が、デンマーク=ノルウェー初の植民地を、インドの南海岸のトランケバルに建設した。
ナポレオン戦争後の1814年にノルウェーがスウェーデンに割譲されたものの、ノルウェーが中世以来保有していた植民地はデンマーク領に留め置かれた。
今日では、デンマークの海外植民地はわずかに2つ、いずれもノルウェーから受け継がれた植民地であるフェロー諸島とグリーンランドがデンマーク領内にとどまっている。地方行政上、フェロー諸島は1948年まで県、グリーンランドは1953年まで植民地であったが、いずれも今では自治領に昇格し[2]、デンマーク本土と共に「デンマーク王国共同体」を形成している。
アフリカ大陸
デンマークはアフリカの黄金海岸沿い、特に現在のガーナにいくつかの貿易拠点や砦を所有していた。貿易拠点のうち3つ[3]、フレデリクスボー砦、クロムポ、オス城はアクラに位置し、いずれも1661年にスウェーデンから購入したものだった。また軍事拠点としては1784年に建設されたプリンセンシュタイン砦、1787年に建設されたアウグスタボー砦、それにフレデンスボー砦とコンゲンシュタイン砦があるが、それらのうちいくつかは今では廃墟となっている。現在でも残っているのはオス城とクリスチャンスボー城で、後者はガーナ大統領官邸としても用いられた。
フレデリクスボーではプランテーション開発が試みられたが、失敗した。クリスチャンスボー城は西アフリカにおけるデンマークの拠点となり、西インド諸島に向かう奴隷貿易の中心ともなった。1807年、デンマークが交易をしていた勢力がアシャンティ人に属するアカン人に滅ぼされた。そのためデンマークは1850年にすべての貿易拠点を放棄し、砦をイギリスに売却した。
一覧
- フレデンスボー砦 (ニンゴ: 1734年 – 1850年3月)
- クリスチャンスボー砦 (アクラ/オス: 1658年 – 1659年4月、1661年 – 1680年12月、1683年2月 – 1693年、1694年–1850年)
- アウグスタボー砦 (テシ: 1787年 – 1850年3月)
- プリンセンシュタイン砦 (ケタ: 1780年 – 1850年3月12日)
- コンゲンシュタイン砦 (アダ・フォア: 1784年 – 1850年3月)
- カールスボー砦 (ケープ・コースト: 1658年2月 – 1659年4月16日、1663年4月22日 – 1664年3月3日)
- ケープ・コースト城 (コング) (ケープ・コースト: 1659年 – 1661年4月24日)[4]
- フレデリクスボー砦 (アマンフルもしくはアマンフロ: 1659年 – 1685年4月16日)
- ウィリアム砦 (アノマブ: 1657年–1659年)
- ニンゴ付近の小拠点 (1784年-1850年)
アメリカ大陸
グリーンランド(1814年-現在)
グリーンランドはヴァイキング時代、995/6年の赤毛のエイリークによる発見以降、アイスランド人やノルウェー人が入植した。中世には司教区が置かれ(ニーダロス大司教区に従属)、22堂の教会や2つの女子修道院が存在した。1261年、グリーンランドはノルウェー王国領となった。1397年にカルマル同盟が成立すると、グリーンランドはデンマーク=ノルウェーに継承された。15世紀にノース人のグリーンランド植民地が消滅した後、ヨーロッパ人は長らくグリーンランドを訪れ入植することがなかった。1721年、ルター派の牧師ハンス・エゲデがグリーンランドに上陸し、現在のヌークにあたる街を建設した。1814年にキール条約が結ばれノルウェーがスウェーデン王国に割譲された際、グリーンランドはデンマーク領のまま残った。
第二次世界大戦中の1943年、アメリカ合衆国がチューレ空軍基地を建設した。これによりグリーンランドの戦略的な重要性が確認され、1945年以降はグリーンランドの開発が進み、冷戦においても戦略的に重要な位置を占めた。この発展の背景には、航空機や砕氷船の技術が発達し、補給が容易になったことも関係していた。行政上も、格下の植民地だったグリーンランドは19世紀以降発展していき、1953年にデンマーク憲法が適用される正式なデンマーク領となった。
デンマーク領西インド諸島(1666年-1917年)
デンマーク=ノルウェーは、1671年にセント・トーマス島[3]、1718年にセント・ジョン島を獲得し、1733年にフランスからセント・クロイ島を購入した。これらの島はすべて砂糖を経済基盤としていた。デンマーク領西インド諸島と総称されるカリブ海の島々は、1917年にアメリカに2500万ドルで売却された。もとよりこの島々では貧しい英語話者の暴動が絶えず、1870年代から何度か売却計画が持ち上がっていた。デンマークのカール・サーレ政権(1914年-1920年)は本国で選挙の実施に抵抗しており、西インド諸島植民地の売却によって事態を打開しようとしていた。アメリカは諸島を海軍基地として使いたいという希望があり、両者の利害が一致して、1917年に売却が成立した。1917年以降、この島々はアメリカ領ヴァージン諸島と呼ばれている。
- ^ Prem Poddar, and Lars Jensen, eds., A historical companion to postcolonial literatures: Continental Europe and Its Empires (Edinburgh UP, 2008), "Denmark and its colonies" pp 58-105.
- ^ Benedikter (2006年6月19日). “The working autonomies in Europe”. Society for Threatened Peoples. 2008年3月9日時点のオリジナルよりアーカイブ。2019年8月30日閲覧。 “Denmark has established very specific territorial autonomies with its two island territories”
- ^ a b c Olson, James Stuart; Shadle, Robert, eds (1991). Historical Dictionary of European Imperialism. Greenwood Publishing Group 2012年9月4日閲覧。
- ^ “Africa. List of Dutch colonial forts and possessions”. colonialvoyage.com. 2018年3月11日閲覧。
- デンマークの植民地のページへのリンク