テ04船団 背景

テ04船団

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/30 02:44 UTC 版)

背景

太平洋戦争前半、日本は占領した東南アジアの資源地帯とのシーレーン保護にそれほど大きな戦力を割いてこなかった。しかし1943年(昭和18年)後半から1944年初頭にかけてアメリカ潜水艦の攻撃による商船被害が増大したため、日本海軍の海上護衛総司令部は、大船団主義を採用して護送船団の編制を強化する方針を決めた。従前から石油輸送に関してはヒ船団と称する専用船団が編成されていたが、同じく重要資源である鉄鉱石についても、産地である海南島と日本本土の間で専用船団を編成することになった[1]

当時の日本は鉄鉱石の海外依存度が85%以上であったが、輸送船の消耗のために海上輸送が困難となり、1944年4月には輸入量がピーク時の半分近くまで減少してしまっていた。海南島は、当時の日本の勢力圏内で長江方面と並んで良質の鉄鉱石産地で、特に長江方面の制空権連合国側に奪われてからは依存度が高まっていた[2]

こうして創設された鉄鉱石専用船団は、テ船団(テ号船団)と命名された。海南島に向かう往路は奇数、日本に帰る復路は偶数の船団番号を順次割り振る規定だったので、テ04船団という名称は復路2便目の鉄鉱石船団を意味することになる。

テ船団の運航は、船団速力9ノットの低速船団とされた。海南島に向かう往路は補給のため基隆に寄港し、復路は状況によって高雄に寄港することになっていた。護衛は第一海上護衛隊が担当した[1]

対するアメリカ海軍はガトー級潜水艦(改良型を含む)の量産が進み、日本の南方資源航路に対する通商破壊を強化していた。特に船団攻撃用の新戦術として、3隻の潜水艦でチームを組んだウルフパックの運用を開始していた。日本側もウルフパック戦術の存在に気付いていたが、十分な対策を講じることはできていなかった[3]


  1. ^ a b 防衛庁防衛研修所戦史室 『海上護衛戦』、352-353頁。
  2. ^ 大井(2001)、242-243頁。
  3. ^ 大井(2001)、227-229頁。
  4. ^ a b c d e f 岩重(2011)、84-85頁。
  5. ^ 大井(2001)によれば、護衛艦はさらに特設掃海艇1隻を加えた4隻(244頁)。本文で後述のように、5月3日-5日に特設掃海艇第3拓南丸が護衛に加わっている。
  6. ^ a b 「昭和19年4月1日~昭和19年5月31日 第1海上護衛隊戦時日誌(2)」 Ref.C08030140700、画像6-7枚目
  7. ^ 大井(2001)、240-241頁。
  8. ^ 「昭和19年6月1日~昭和19年7月31日 第1海上護衛隊戦時日誌(1)」 JACAR Ref.C08030141000 画像9枚目。
  9. ^ 「昭和19年6月1日~昭和19年7月31日 第1海上護衛隊戦時日誌(1)」 JACAR Ref.C08030141000 画像37枚目。


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