コンスタンティノープル
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古代ローマ帝国・東ローマ帝国時代の主な建造物
- ハギア・ソフィア大聖堂(アギア・ソフィア大聖堂、アヤソフィア)
- 初期ビザンティン建築の最高傑作。帝国最大の教会で、東ローマ帝国期には総主教座が置かれていた。コンスタンティノープルの陥落後、モスクに改修され、近代に政教分離政策で無宗教の博物館になったあと、2020年に再びモスクとなった(「アギア・ソフィア」は中世以降のギリシア語読み。古典ギリシア語では「ハギア・ソピアー」)。
- ハギア・イレネ教会(アギア・イリニ大聖堂)
- 初期の総主教座所在地。オスマン帝国期にはトプカプ宮殿の倉庫に改修され、建物としては現存している。
- 聖諸使徒聖堂
- 歴代皇帝の多くが埋葬された教会で、ヴェネツィアの聖マルコ教会のモデルとして知られる。現存せず、跡地にはファーティフ・モスクが建てられている。
- テオドシウスの城壁
- 5世紀の皇帝テオドシウス2世の命によって建設された三重構造の大城壁。難攻不落を誇り、コンスタンティノープルへと攻め寄せた敵を度々撃退した。オスマン帝国期にある程度の修復が行われ、一部が現存している。
- 大宮殿
- 現在のブルー・モスク近辺にあった宮殿。「聖なる宮殿」とも呼ばれた。歴代の東ローマ皇帝が住んだ宮殿で、盛時には絢爛豪華さを誇った。現在では一部の床モザイクが残存し、博物館で展示されているほか、近年では発掘調査が進められている。
- 競馬場(ヒッポドローム)
- 首都となる以前、ビュザンティオン時代に建てられたといわれている。大宮殿に隣接しており、宮殿と競馬場の貴賓席は通路で結ばれていた。ここは、競馬(戦車競走)のほか、7世紀頃までは皇帝即位式、それ以降も凱旋式などの国家的行事の会場に使用された。オスマン帝国期にも祝祭のパレードに用いられ、競馬場としての施設は消失したが、競馬場中央に置かれていたオベリスクとデルポイから運ばれた青銅製の蛇の柱が現存している。また青銅製の4頭の馬の像があったが、第4回十字軍の時にヴェネツィアによって掠奪され、いまではヴェネツィアの聖マルコ教会にある。
- ゼウクシッポス浴場
- 競馬場の隣りにあった、古代ローマ式の大浴場。7世紀後半の暗黒時代に打ち棄てられてしまい、後には兵舎や監獄、絹織物の国営工場などに転用されてしまった。
- コーラ修道院
- 東ローマ帝国末期のフレスコ画で有名な教会。のちにモスクに転用され、現在は博物館として公開されている。
- 生神女・パンマカリストス教会
- コーラ修道院に似た構図の「パントクラトール」のモザイク画などが残されている。のちにモスクに転用され、現在は一部が博物館として公開されている。
- パントクラトール修道院付属教会
- 12世紀にコムネノス王朝が建てた修道院の付属教会。モスク(ゼイレク・モスク)に転用され、現存。
- ウァレンス水道橋
- 4世紀のウァレンスの治世にコンスタンティノープル市長クレアルコスによって建設された古代ローマ時代の水道橋[18]。補修が繰り返されて19世紀まで使われ、現在は遺跡として整備保存されている。
- コンスタンティヌスのフォルム(広場)
- コンスタンティノープル元老院の議事堂などがあったフォルム。現在では、コンスタンティヌスの銅像が乗っていた円柱の一部のみが残っている。
- 地下宮殿
- ハギア・ソフィア大聖堂そばに設けられた地下貯水池。現存。
- 聖セルギオス=バッコス教会
- ユスティニアヌス1世時代に建てられた教会。モスク(キュチュック・アヤソフィア・モスク)に転用され、現存。
- ブルケラナエ宮殿
- 市内北東部にあった、12世紀以降の皇帝が主に居住した宮殿。現存しない。
- コンスタンティノス・ポルフュロゲネトスの宮殿(テクフール・サライ宮殿)
- 帝国末期の宮殿で市の北東部にあった。一部遺構が現存している。
- ブーコレオン宮殿
- 大宮殿の南、マルマラ海沿いにあった宮殿。一部の遺構が現存している。
- アスパルの貯水池
- 459年にゲルマン人アスパルによって建造された露天貯水池[13][19]。コンスタンティノープルに建造された貯水池の中でも深さ10メートル、一辺152メートルの正方形と特に巨大[19]。現在は貯水池としてではなく運動公園として利用されている。
注釈
- ^ 英語でいう the City に相当する。
- ^ ベルナール・レミィ(#レミィ2010>p67)によると、ディオクレティアヌス以来財務官は「元老院の息子が二十五歳(?)で就任するだけのものとなり、もはや元老院への加入を認めるものではなくなったように思われる」とし、法務官は、「首都担当法務官と後見担当法務官の二つのポストだけしか残されなかった」としている
- ^ 英語版en:Praefectus urbiの記事に出典なしで記載されているため、要出典。なお、5世紀初頭の史料ノティティア・ディグニタートゥムにはコンスタンティノープル長官(Praefectus urbis Constantinopolitanae)が登場し、ローマ市長官と同格の順位に記載されている
- ^ 「最も光輝ある者」を意味する称号。後述するクラリの最上級。
- ^ 「光り輝いた」という意味の形容詞。クラリッシムスの原級。
- ^ 五世紀中頃の史家ソクラテスは、コンスタンティヌスが「その町を帝都ローマに等しくすると、コンスタンティノープルと名付け、新しいローマと定めた」と記している(井上浩一『生き残った帝国ビザンティン』1990年p71)
- ^ スペインのコルドバはコンスタンティノープルに匹敵する大都市であったが、当時のコルドバはイスラム王朝・後ウマイヤ朝の支配下にあって、ローマ帝国の都市ではなかった。
出典
- ^ 『日本大百科全書』小学館、コンスタンティノープル
- ^ 尚樹1999、p27。
- ^ ジョーンズ2008、p.226。
- ^ a b 井上2008、pp.62-73
- ^ [コンスタンチノープル]『ブリタニカ国際大百科事典』第2版、TBSブリタニカ、1993年。
- ^ a b 南川2015、p.13
- ^ a b 井上2008、p.63
- ^ a b ランソン2012、p.138。
- ^ 南川2015、pp.15-16
- ^ 根津2008、p.7。
- ^ [ローマ史]『ブリタニカ国際大百科事典』第2版、TBSブリタニカ、1993年。
- ^ 井上2008、p.64
- ^ a b 井上1998、p111。
- ^ 南雲2018、p.150。
- ^ 井上2008、pp.72-73
- ^ Matt T. Rosenberg. “Largest Cities Through History”. About.com. 2009年1月30日閲覧。
- ^ 世界の歴史4、p.382。
- ^ 南雲2018、pp.164-166。
- ^ a b 南雲2018、p.171。
- 1 コンスタンティノープルとは
- 2 コンスタンティノープルの概要
- 3 古代ローマ帝国・東ローマ帝国時代の主な建造物
- 4 コンスタンティノープルを取り上げた文学作品
- 5 外部リンク
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