コヘレトの言葉
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/08 11:12 UTC 版)
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『コヘレトの言葉』は冒頭の一文により、その著者が古代イスラエル王国第三代王ソロモンであることを仄めかしている。
ソロモンを著者とする説は保守的な注釈家たちの間では広く受け入れられており、彼らはこの記述をもって、ソロモンが「コヘレト」という異名でも呼ばれていたと主張し、その由来を、コヘレト(קהלת)が多くの共同体(קהילות)をエルサレムに集めた(הקהיל)からであると説明している。もちろん、会衆を集めて律法を教えるなど、神の命に適った施政を実践したとする彼の業績は『列王記上』などに記録されている。これらの説が正しいのならば、『コヘレトの言葉』は、紀元前10世紀代にソロモンが残したとされる一連の著作の一つということになる。
伝統的に旧約聖書の書物の中の三つがソロモンの手に帰されている。『雅歌』、『箴言』、そして『コヘレトの言葉』である。もっとも、これらの書物には思想、様式、文体などの点で相応の相違が認められる。これに関しては、それぞれの書物はソロモンの生涯における異なる三つの時代に書かれたと説明されている。つまり、青年時代に愛の歌を歌い(『雅歌』)、壮年期に知恵の言葉をまとめ(『箴言』)、経験を重ねた晩年に至って、この世のすべてを「虚しい」と断じた(『コヘレトの言葉』)というのである(『ミドラシュ・シール・ハ=シリーム・ラッバー』 1.1)。
近代における研究では、『コヘレトの言葉』はソロモンから数百年も後代の紀元前4世紀から同3世紀にかけての第二神殿時代に書かれたと推定されているが、明らかな証拠が無く仮説として知られている。
同書の著者あるいは編纂者は、当初よりこれを知恵文学を代表する著者名であるソロモンに(律法全体をモーセと呼ぶように)仮託したものと見られている。また、研究者の多くが同書の成立年代を第二神殿時代のより後期に見積もっているのだが、それはפרדס(果樹園)、פתגם(おふれ)といったペルシア語由来の単語が記されているからである。ヘレニズム期の黙示思想に抗するものであるとする説もある[2]。
- ^ "伝道の書". 日本大百科全書(ニッポニカ). コトバンクより2024年1月8日閲覧。
- ^ 臼田宣弘 (2019年3月7日). "コヘレト書を読む(18)「神の業を受け入れよ」―黙示思想の否定なのか―". クリスチャントゥデイ. 2023年11月14日閲覧。
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