オーデル川
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/29 23:17 UTC 版)
歴史
古代ローマ人はゲルマニア奥地(ゲルマニア・マグナ)にあるこの川を、「ヴィアドルス川」(Viadrus)または「ヴィアドゥア川」(Viadua)の名で記録に残しており、バルト海北東部から中欧を縦断しローマ帝国に至る「琥珀の道」(アンバーロード)の支線の一部となっていた。
ゲルマニア奥地のヴィアドルス川とヴィストゥラ川(Vistula、ヴィスワ川)は重要な交易路で、両川の間に住んでいた多数の部族の名が記録されている。845年頃の氏名不詳の人物「バイエルン人の地理学者」(Geographus Bavarus)によるドナウ川以北の地名や都市名を記した書物によれば、上流のシレジアにはシレジア人(Silesians)、ダドシャニ人(Dadoshanie)、オポラニア人(Opolanians)、ルピグラア人(Lupiglaa)、ゴレンシツェ人(Golenshitse)が、下流の西ポメラニアにはウォリニア人(Wolinians)やピルジカン人(Pyrzycans)が住んでいたとある。プラハの司教管区の文書(1086年)には、シレジアに住む Zlasane, Trebovyane, Poborane, Dedositze などの民族の名が記されている。
ドイツ人はオーデル川と呼び、古い資料には中世ラテン語でオデラ川(Odera)またはオッデラ川(Oddera)と記している。10世紀末のポーランド周辺に関して記した古文書の断章「Dagome iudex」では、990年頃のミェシュコ1世とその妻オーダ・フォン・ハルデンスレーベン(Oda von Haldensleben)の領地(グニェズノのピャスト朝の支配地域)はオーデル川からモラヴィア、クラクフ、プロシアへと広がっていたという。オーデル川下流の両岸に広がるルブシュ地方(独: ラント・レブス。その名は現在のポーランド領ルブシュ県に受け継がれている)は中世においてはこの周辺の中心地であった。
中世には流域に農業が広がり、13世紀に農地を守るためのダムが建設されている。ドイツ人の東方植民でオーデル川右岸の民族はドイツ人の支配を受け徐々に同化された。フランクフルト (オーダー)やヴロツワフ(ブレスラウ)などのオーデル川流域の都市は、ヨーロッパの東西を結ぶ交易路と、バルト海からオーストリアへ南北を結ぶ河川交通の交点として栄え、商業の中心地や大学の所在地となった。産業革命後は、農業中心のオーデル川流域はラインラントやルール地方などドイツ西部に対して地盤沈下したが(オストフルフト)、上シレジアで鉄鉱石や石炭の大規模な採掘がはじまると上流域は産業地帯となった。
第二次世界大戦後、ポツダム会談により、ドイツとポーランドの国境はポーランド政府の意向を無視してオーデル・ナイセ線にまで引き戻され、東方植民以来長年ドイツ文化圏にあったオーデル川流域の大半がポーランド領となり(回復領)、オーデル川以東(旧ドイツ東部領土)に住んでいたドイツ人は西ドイツなどへ追放された。
- ^ ドイツ語発音: [ˈoːdɐ] ( Das Aussprachewörterbuch (6 ed.). Duden. p. 593. ISBN 978-3-411-04066-7
- ^ 帝国書院編集部『新詳高等地図』、帝国書院、2022年。
- ^ “Poodří | Ramsar Sites Information Service”. rsis.ramsar.org (1993年9月10日). 2023年4月1日閲覧。
- ^ “Unteres Odertal, Schwedt | Ramsar Sites Information Service”. rsis.ramsar.org (1978年7月31日). 2023年4月1日閲覧。
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