アメリカ合衆国副大統領
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職務
大統領の次席
アメリカ合衆国大統領が死亡・辞任・免職などにより欠けた場合は、副大統領が大統領に昇格する(アメリカ合衆国憲法修正25条第1節)。
事故・病気などにより大統領が一時的に職務遂行不能になった場合は、副大統領が臨時に大統領権限を代行する。副大統領による代行がなされた実際の事例は、大統領が手術や検査で麻酔処置を受けるに際して明示的に権限を一時委譲したケースのみである。憲法修正第25条第3節の規定では、大統領による反対申し立てがあった時点で大統領が職権を回復する。同条第4節では、一応の意思表示には支障が無い大統領が精神的な責任能力を失ったような場合を想定し、副大統領と閣僚の過半数が申し立て議会両院それぞれで3分の2の多数による承認議決があれば、大統領による反対申し立てがあった場合でも副大統領が大統領権限を代行することを規定する。
大統領の名代として儀式に参列したり、外交上の接受や表敬訪問を行ったりする職務も大統領から都度委ねられる。
上院議長
副大統領は上院議長(じょういんぎちょう、President of the Senate)を兼務し、可否同数の場合のみ均衡を破る1票(議長決裁票、Tie Breaking Votes)を投じる。議院規則により、議論に参加することはできない[注釈 1]。
旧来は実際に上院本会議の議事を主宰していたが、今日では議事を主宰することは稀である。現代では通常の議事進行を上院仮議長代行が行う。
1960年代初頭までは日常的に上院本会議の議事進行を司っていた。副大統領に上院議員出身の者が圧倒的に多い一因もここにある。しかし第二次世界大戦終盤から冷戦中にかけての重要な時期に、ハリー・トルーマン、リンドン・ジョンソン、ジェラルド・フォードが次々に大統領に昇格するという事態が起こると、以後の副大統領にはもっぱら大統領の「スペア」としての存在が求められるようになり、その結果ホワイトハウスに出入りして閣議に出席することの方が日常的となり、上院本会議の議事進行を行うことは稀となった。
国家的な儀式としての重要性の高い議長職務は今日でも副大統領自身が務める。大統領の一般教書演説などが行なわれる上下両院合同会議では、下院議長と共に共同議長として下院本会議場議長席に立つ。また大統領選挙の選挙人投票結果は各州より上院議長としての副大統領に送付され、両院合同会議で副大統領自身の議事進行により集計・認証する。この際副大統領自身が大統領候補もしくは副大統領候補であっても、それを理由として任務を上院仮議長等に委ねることは無く、自らの得票数と当落を最終的に認証する立場になることも多い。上院の改選・補欠選挙、あるいは補欠選挙まで務める議員の任命が行われた際、議長として本会議で議員の着任を宣言し就任宣誓を取り仕切ることも副大統領が自ら行う。
注釈
- ^ アメリカ合衆国下院では在任中の議長が一議員として自ら議論に加わることを認めており、実際にその権利が行使されることも稀にある。
- ^ 近年の大統領選挙では、ほとんどの副大統領候補の発表が全国党大会の2〜3週間前から2〜3日前の間に行なわれている。なお、代議員獲得数が複数の候補間で大きく割れて明らかな本命がいない場合には、党大会における代議員投票で実際に大統領候補を選出して指名を行うまで、副大統領候補も決まらない。
- ^ 特定候補への投票を誓約しない選挙人団の立候補・被選出も可能だが、近年では非誓約選挙人が選出された例はない。
- ^ 1980年の共和党の予備選挙では、前半でブッシュ元CIA長官が予想以上に善戦した。そのため過半数を優に超える代議員数を得ていたレーガン元カリフォルニア州知事も、副大統領候補の選定には慎重にならざるを得ない状況にあった。指名は全国党大会の最終日前日に行われる大統領候補指名の後まで持ち越しとなったが、このときドリームチケットとして紙面を賑わせたのがフォード前大統領をレーガンの伴走者にするという「レーガン=フォード」チケット構想である。フォードはニクソン大統領の指名と上下両院の承認をもって副大統領に就任、さらに翌年にはニクソン辞任にともない大統領に昇格した。ところが現職大統領として戦った1976年の大統領選挙では民主党のカーター候補に敗れている。この「大統領選挙に一度も勝ったことがない大統領」に何とか勝利の美酒を味わわせたいという願いもあって、この案は各方面から支持され、一時は既定のシナリオとみなされていた。しかし「ホワイトハウスは2人の大統領の仕事場としては狭すぎる」と判断したレーガンは、結局党内融和と左右のバランスを優先、予備選挙で次点となったブッシュを副大統領候補に指名した。
- ^ 合衆国憲法修正25条第2節
- ^ この選挙は現職副大統領のジェファソンが現職大統領のアダムズを破るという「革命的な選挙」だった。詳細は「1800年アメリカ合衆国大統領選挙」を参照。
- ^ 副大統領2期目在任中に大統領選に出馬して当選したのは初代副大統領のアダムズ以来192年ぶりのことで、ブッシュは「副大統領職は長く務めるほど自身の大統領選が不利になる」という長年のジンクスを覆している。
- ^ クエール副大統領は1988年の選挙戦の頃から失言や出来の悪いジョークなどが目立ち、これが副大統領となってからも一向に改まる気配がなかったことから、「万が一の場合の大統領」としての資質を各方面から問われていた。そのため1992年の大統領選で再選を目指すブッシュ大統領には、与党共和党からクエールを更迭すべきだという要請が数多く寄せられていた。しかし自分もレーガン大統領のもとで8年副大統領を務め、何かとこの「偉大な大統領」と比較されることが多かったブッシュは、こうした勧告に一切耳を貸さなかった。ブッシュはこの大統領選で敗北している。
- ^ なお、バーはニューヨーク州知事選落選直後の1804年7月、法曹界時代から家族ぐるみで対立関係にあったハミルトン財務長官を「ウィホーケンの決闘」で殺害したことにより、ニューヨーク・ニュージャージー両州から殺人罪で起訴されている(ただし後に両州とも起訴を取下げている)。決闘の直接原因は1800年の大統領選挙で、連邦党に属しながら民主共和党のジェファソンを支持していたハミルトンは、同じ民主共和党から立候補していたバーの当選を阻止するため、下院で多数を占める連邦党を説得しジェファソン支持に回らせ、バーの怒りを買った。この大統領選挙の混乱と顛末が憲法修正第12条提案につながる。決闘は修正第12条の批准完了から約1ヶ月後の出来事だった。バーは政界引退後大西部探検旅行に出るが、帰ってきたところを今度は国家反逆罪容疑で逮捕収監されている。合衆国が新たに購入したルイジアナを奪って帝位に即き、スペイン領メキシコに対して戦争を仕掛けることを目論んだ、という壮大な内容の容疑だったが、公判では証拠不十分で無罪となっている。その後は人目を避けてしばらく欧州に「亡命」するなど、何かにつけて異色の副大統領だった。
- ^ ただしルーズベルトはウォレスを商務長官に転出させることで宥和を計っている。
- ^ 大統領への昇格を除いて在任が最短なのはウィリアム・キング(在任45日で病死・大統領への昇格を含めるとジョン・タイラー(31日・ウィリアム・ハリソン大統領病死により昇格)、アンドリュー・ジョンソン(42日・エイブラハム・リンカーン大統領暗殺により昇格)に次いで3番目に短い)。
出典
- ^ 【米国を知るキーワード】副大統領から占う次期大統領選『産経新聞』朝刊2022年6月4日オピニオン面(2022年6月8日閲覧)
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