さい‐の‐かわら〔‐かはら〕【×賽の河‐原】
賽の河原
読み方:サイノカワラ(sainokawara)
さいのかわら 【賽の河原】
賽の河原
賽の河原
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/21 14:45 UTC 版)
「銀河鉄道999の停車駅」の記事における「賽の河原」の解説
不毛の荒野。多くの開拓農民が移住してきたが、過酷な環境下で作物は全くと言っていいほど育たぬまま開拓者たちは死んで行き、残っているのは権兵衛1人のみであったが、権兵衛は諦めることなく、死んでいった仲間たちを肥料にしつつ畑作に励んでいた。また、死んでいった開拓者は皆笑顔で死んでいる。
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賽の河原
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/04 04:20 UTC 版)
三途川の河原は「賽の河原」(さいのかわら) と呼ばれる。賽の河原は、親に先立って死亡した子供がその親不孝の報いで苦を受ける場とされる。そのような子供たちが賽の河原で、親の供養のために積石塚(cairn ケルン・ケアン)または石積みの塔を完成させると、供養になる。しかし完成する前に鬼が来て塔を破壊し、再度や再々度塔を築いてもその繰り返しになってしまうと言う。こうした俗信から「賽の河原」の語は、「報われない努力」「徒労」の意でも使用される。しかしその子供たちは、最終的には地蔵菩薩によって救済されるとされる。ただし、いずれにしても民間信仰による俗信であり、仏教とは本来関係がない。 賽の河原は、京都の鴨川と桂川の合流する地点にある佐比の河原に由来し、地蔵の小仏や小石塔が立てられた庶民葬送が行われた場所を起源とする説もあるが、仏教の地蔵信仰と民俗的な道祖神である賽(さえ)の神が習合したものであるというのが通説である。 中世後期から民間に信じられるようになった。室町時代の『富士の人穴草子』などの御伽草子に記載されているのが最も初期のものであり、その後、「地蔵和讃」、「西院(さいの)河原地蔵和讃」などにより広く知られるようになった。 この伝承から、石が多い湖畔や河原、海蝕洞内を含む海岸に、積み石や子供を救済するとされた地蔵菩薩像などが造られて「賽の河原」と呼ばれるようになった場所も、数カ所存在する。後述の恐山(青森県)のほか、新潟県の佐渡北部 (願地区)、島根県にある加賀の潜戸(くげど)などが有名である。
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