W165の開発経緯
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「モータースポーツにおけるメルセデス・ベンツ」の記事における「W165の開発経緯」の解説
詳細は「メルセデス・ベンツ・W165」を参照 1938年9月のイタリアグランプリが終わった頃、同年の選手権や非選手権の主だったレースがことごとくドイツ勢に席巻され、イタリア勢がグランプリで1勝もできずに終わったことから、9月11日、イタリアのスポーツ委員会は1939年以降のイタリア国内におけるレースに出場する車両の排気量を1,500㏄以下に制限することを決定した。自動車好きの多いイタリアにおけるレースで良い印象を残すことは直接的な販売につながるかということに留まらない影響があるものであり、メルセデスチームとしては欠場すれば大きな痛手となるものであった。また、その決定は当時「世界で最もグラマラスなグランプリ」と呼ばれていたトリポリグランプリに出場できなくなることも意味していた。 決定から開催まで8か月しかなく、通常であれば規定に合うレースカーの開発は不可能であり、ドイツ勢にとっては寝耳に水のこの決定はノイバウアーを憤激させた。報告とともに新車両を開発するよう要請を受けたマックス・ザイラーは期間の短さに躊躇し、一度は却下したが、1938年9月15日、レース部門の技術者たちを前に「イタリア勢に締め出されて、このまま引き下がる手はない」と鼓舞し、極秘裏に開発が始められた。 時間的な制約から、車体は1938年型W154のレイアウトや機構を踏襲し、同車の縮小版として開発された。 規則で定められた「1,500ccエンジン」は新たに開発する必要があったが、この時もアルベルト・ヘスのチームが辣腕を振るい、DOHCで1気筒あたり4バルブを採用したV型8気筒のスーパーチャージャー付きエンジンであるM164エンジンを完成させた。出力は254馬力だが、車重は燃料を満タンにしてもわずか905㎏であることから、充分すぎる性能だった。W154に先んじて5速のトランスミッションが投入され、レースではラング車をエース格として、ギア比を高くし、トリポリに合った高速走行向きのセッティングとし、カラツィオラにはサポートを任せ、ギア比を低くして加速が良いようにして、両名のピット戦略を分けることで万全を期した。
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