M1942降下兵用ジャケット・ズボン
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「軍服 (第二次世界大戦の米陸軍)」の記事における「M1942降下兵用ジャケット・ズボン」の解説
西方電撃戦におけるドイツ空挺部隊の戦果に驚いた陸軍省は1940年6月25日に空挺部隊の創設を認可した。空挺部隊専用の戦闘服として導入されたのがジャケットとズボンから成るツーピースのM1942パラシュート降下兵用戦闘服だった。正式名称はジャケットが「COAT,PARACHUTE,JUMPER」(PQD114)、ズボンが「TROUSERS,PARACHUTE,JUMPER」(PQD113)という。 薄いOD色のコットン・ポプリン製の上衣とズボンであり、数回の洗濯で脱色してタン色に近くなった。上衣には裏地はなく、前合わせは隠しジッパーで閉じた。両胸と両腰に蓋つきポケットが付いており、蓋は二つのスナップ・ボタンで留められた。胸ポケットは斜めに縫い付けられている。腰にはバックル付きの布ベルトが付いている。背中は動きやすいよう大きなプリーツが三か所に入っていた。喉元には小さなポケットがあり、M2ポケットナイフ(着地に失敗した時に落下傘を切り離すときに使用する飛び出しナイフ)を収めることができた。 ズボンには腰ポケット、尻ポケットのほか、左右の腿に上位のポケットと同じ形の大きな蓋つきポケットが縫い付けられていた。ズボンの裾はジャンプブーツにたくし込んで着用するため先端が絞り込んであった。初期のモデルは裾に三角形のゴムがついており、足首にフィットさせていたが、量産段階では省略された。 降下兵は友軍から孤立して補給を受けられず敵陣で戦うことになるため、大量の弾薬や食料、衣料、医薬品などを持つ必要があり、M1942にポケットが多かったのはそのためだった。M1942のポケットをパンパンになるまで詰め込んだ時は自分の力でタラップを登れないほどの重量になったという。M1942のポケットが膨れ上がった異様な姿の米兵を見たドイツ兵は「バギーパンツをはいた悪魔」と呼んで恐れたという。 しかし何度かの実戦を経てM1942は欠点が多いことが判明した。特に問題だったのが生地が弱いので肘や膝がすぐに破れ、ポケットは重量に耐え切れず破損しやすかったことである。生産しやすいよう軍服の統一化を推進していた需品科の方針もあって、ノルマンディー上陸作戦後、南フランスでの空挺作戦に使用されたのを最後にM1942の回収が行われ、空挺部隊にもM1943フィールドジャケットが支給されるようになった。マーケット・ガーデン作戦の頃には空挺部隊はM1943フィールドジャケットを使用していたが、ズボンについてはM1942ズボンのように大きなカーゴポケットとストラップを取り付ける改修作業が現地の基地で行われたという。 M1942パラシュート降下兵用ジャケット(オランダ・国立1944-1945解放博物館の展示物) M1942パラシュート降下兵用軍服(2016年イギリス・ノース・ヨークシャー・ムーアズ鉄道(英語版)歴史再現イベント) M1942パラシュート降下兵用軍服(Dデイ前日の1944年6月5日、イギリス・グリーナム・コモン空軍基地。ドワイト・D・アイゼンハワーの第502空挺歩兵連隊(英語版)視察) M1942パラシュート降下兵用ジャケット(1944年9月15日ブレストに降下してフランス・レジスタンスを組織した空挺部隊指揮官J.W.サマー)
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