2. 諸国の租税を免じ、倹約を専らにせらるべき事
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/08 08:03 UTC 版)
「北畠顕家上奏文」の記事における「2. 諸国の租税を免じ、倹約を専らにせらるべき事」の解説
現存第2条は、「可被免諸国租税専倹約事」(「諸国の租税を免じ、倹約を専(もっぱ)らにせらるべき事」)で、諸国の租税を免じて、つとめて倹約するべきことを主張している。 この条項では、戦争によって民が重税に苦しんでいるので、奢侈を断ち、(3年のあいだ課税・労役を止めたという)仁徳天皇の事績に従えば、(当時理想の聖君と考えられていた)醍醐天皇のような威徳を得ることができ、敵もみな帰服して戦乱が終わるだろう、と説いている。また、謀反人(北条氏など)から没収した土地に新しく補任した地頭に対する賦課も減免せよ、と説く。 建武の新政では、元弘の乱直後にも関わらず大内裏の造営計画が進められており、顕家にはこの事業に伴う多額の支出と増税が念頭にあったと考えられる。亀田俊和は、巨大建造物で権威を誇示するというのはどの政権も行っていることで、造営計画そのものが間違っているとは思わないが、戦争の疲弊が回復しきっていないあの時点で行うのは悪手であった、と顕家に同意している。 また、「新しい地頭への賦課」について、佐藤進一は建武元年(1334年)5月の農民から東寺への訴状を関連文書に挙げた。この訴状によれば、ようやく北条氏の圧政から解放されると期待していたのに、建武の新政では逆に東寺から新しい年貢が賦課されてしまった、という。農民の批判は直接には東寺に向けられているが、佐藤は、この新しい年貢は東寺だけの裁量ではなく、建武政権も一枚噛んでいたのではないか、と推測している。 この他にも、軍記物『太平記』の物語では、建武政権で公卿たちが驕り高ぶって贅沢をした様子が描かれている。黒板勝美は、『太平記』には大幅な誇張表現があるだろうとしつつも、顕家がここまで批判するからには、ある程度までは事実だったのだろう、としている。 しかしながら、建武政権時代ならばともかく、既に吉野の山奥でほそぼそと暮らす南朝に、はたして倹約が必要とされるほどの奢侈を行えたのか疑問である。黒板の指摘では、この条項は、後段の行幸宴飲を戒める条項(5. 臨時の行幸及び宴飲を閲かるべき事)と同様、南朝の現況に対する改善案というよりは、京都を奪還できた後の未来を視野に入れた志を述べたものではないか、という。
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