1973年~74年
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「アンゴラ独立戦争」の記事における「1973年~74年」の解説
1973年にチペンダはアンゴラ解放人民運動を離れ、アンゴラ解放人民運動から引き抜いた1500人の兵士で東部反乱を設立した。 タンザニア大統領のジュリウス・ニエレレ(1922年~1999年)は、1970年からアンゴラ解放人民運動に資金協力をしていた中華人民共和国を説得し、1973年にアンゴラ民族解放戦線と同盟を組んでアンゴラ解放人民運動に対抗させた。ロベルトは中国を12月に訪れ援助を取り付けた。1974年にアンゴラ解放人民運動の主流から活動的反乱が分離した為、ソ連はアンゴラ解放人民運動への援助を完全に打ち切った。11月にネトが主導権を再主張した為、ソ連はアンゴラ解放人民運動への援助を再開した。アンゴラ解放人民運動、アンゴラ全面独立民族同盟、アンゴラ民族解放戦線の連合軍は反乱を成功させた。しかしこれは彼らが戦闘で成功した為ではなく、ポルトガルでの武装軍運動によるクーデターの為だった。武装軍運動は1974年4月25日にカーネーション革命を起こしたポルトガル武装軍の下級士官による組織で、ポルトガルの植民地戦争を終わらせポルトガル海外領土の独立に繋がった。武装軍運動は権威的政治組織や継続中のアフリカ植民地戦争(特にポルトガル領ギニア)への抗議によってリスボン政府を転覆した。ポルトガル革命政府は植民地軍を解体し、直ちにアフリカ人民族運動に権限を渡す事に同意した。これによりポルトガルに対する独立戦争はすぐに終わったが、独立勢力とその支援国同士による争いが始まった。ホールデン・ロベルト、アゴスティニョ・ネト、ジョナス・サヴィンビはザイールのブカヴで7月に会談し、一つの政治組織としてポルトガルと交渉する事に同意した。しかし後に戦闘が再開した。
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